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 群雄割拠  戦国武将伝
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 鳥居 元忠

 鳥居 元忠(とりい もとただ)は、安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。下総国香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。

 生涯

 鳥居忠吉の三男として三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。

 父は松平氏以来の老臣で、岡崎奉行などを務めた。元忠も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人である。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

 天文16年(1547年)、渡の戦いで、長兄・忠宗は戦死し、次兄・本翁意伯は出家していたため、元亀3年(1572年)、父の死後、家督を相続する。

 同年12月の三方ヶ原の戦いや諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。

 天正10年(1582年)、天正壬午の乱で家康の背後を襲おうとした北条勢の別働隊10,000を鳥居元忠ら2,000が撃退し北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦)、その後、家康より甲斐国都留郡(山梨県都留市)を与えられ、谷村城主となる。

 天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世・平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。

 天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、下総国矢作城4万石を与えられる。

 慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられる。家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。

 元忠は最初から玉砕を覚悟で戦い続け、13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。享年62。

 その忠節は「三河武士の鑑」と称された。

 このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。

 明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。

 床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。

 墓所は京都市左京区の百万遍知恩寺のほか、福島県いわき市平の長源寺。

 家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格している。

 

 
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