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 群雄割拠  戦国武将伝
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 徳川 家康

 徳川 家康(とくがわ いえやす)は、日本の戦国武将、江戸幕府の初代征夷大将軍。徳川氏の祖。所謂、三英傑の一人。

 本姓は、先に藤原氏、次いで源氏と名乗った。家系は、三河国の国人土豪・松平氏。

 永禄9年12月29日(1567年2月8日)に勅許を得て、徳川氏に改姓。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。

 概要

 徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上も続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。

 家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した。

 家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542年)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代。

 当時の松平氏は、弱小な一地方豪族(国人)であった。広忠は、臣従していた有力な守護大名・今川氏に忠誠を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、家臣の裏切りにより、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごした。

 この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康と名を改めた。

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、元康は今川氏の混乱に乗じて独立し、信長と同盟を組んだ(清洲同盟)。この後、元康は家康に名を改め、信長の盟友(事実上は客将)として、三河国・遠江国に版図を広げていくこととなる。

 永禄9年(1567年)には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった。

 天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、家康はその混乱に乗じて、甲斐国・信濃国・駿河国へとさらに勢力を広げた。

 天正12年(1584年)、信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉と家康との間で対立が深まり、小牧・長久手の戦いが行われる。この戦いでは、家康が戦術的には勝利したものの、結局、家康は豊臣氏に臣従することとなった。

 天正18年(1590年)、小田原の役において秀吉が関東を支配していた北条氏を滅ぼした後、秀吉は家康に関東への領地替えを命じた(関東移封)。家康は長年の根拠地を失ったものの、最大の領地を得ることとなり、豊臣政権の下で五大老の筆頭となった。

 秀吉没後の慶長5年(1600年)、家康は関ヶ原の戦いにおいて勝利し、その覇権を決定づけた。

 慶長8年(1603年)には、家康は後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開いて、その支配の正当性を確立させた。

 慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。

 慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の役(大坂冬の陣、大坂夏の陣)においても、終始指揮を主導して豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした(元和偃武)。

 元和2年(1616年)、家康は駿府城において死去した。享年75。

 その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)。

 家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、信仰の対象となっている。

 生涯

幼少期から初陣

 三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前4時頃)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。

 2歳のとき、水野忠政の没後水野氏の当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。

 6歳のとき、広忠は織田氏に対抗するため、駿河国の今川氏に臣従し、竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし広忠は今川氏への臣従を貫いたため、竹千代は見捨てられた形となり、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この頃に織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。 2年後に広忠は死去した。

 今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広(前年の天文18年(1549年)、安祥城を太原雪斎に攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府(『東照宮御実紀』では少将宮町、武徳編年集成』では宮カ崎とされている)に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。

 墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。このとき、鳥居忠吉から松平氏の御家人が今川氏の先鋒、事実上の捨石とされている事情を聞く。また、忠吉が今川氏に内密で備蓄していた武具・兵糧・金銭を見せられ、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父・松平清康によく似ていると感嘆したという。

 駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。

 永禄元年(1558年)には織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。

 従来、松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説であった。しかし近年、むしろ今川義元の好意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説が唱えられている。 また、人質というよりも「政務見習い」として預けられたという説もあり、実際にも、太原雪斎の英才教育 を受けさせたとの説もある(事実でないとの異論もある)。

 姪である築山殿を嫁がせているのも、政略的な一面がある一方、一門として迎え入れる厚遇という見方もある。ただし、松平氏の家臣にとっては上述のとおり主君を人質にとられて走狗として酷使された印象を与え、竹千代が今川義元の家臣(孕石元泰)から個人的な虐めを受けるなど忍従の日々であり、後述のとおり今川義元死後に築山殿とも不和になり殺害していることから、その松平氏の主観が後世に伝わり従来の通説となった。

 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。

 なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、この頃から二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)では、住居が隣同士だったとも伝えている。

 後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となっており、また氏規の系統が狭山藩として小藩ながらも明治時代まで存続した。

清洲同盟から三河国・遠江国平定

 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。

 永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。 翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。

 西三河を平定しかけた頃、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧した。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。

 三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。

 この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い、新田氏支流得川氏系統の清和源氏であることも公認させた。

 永禄11年(1568年)には、甲斐国の武田信玄が駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件とした武田との同盟を結び、駿河侵攻に呼応した。

 同年末からは遠江国の今川領国へ侵攻し曳馬城を攻め落とした。

 遠江国で越年したまま軍を退かずに、翌永禄12年に駿府から逃れた氏真を匿っている掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置いた。武田氏の駿河侵攻に対して今川の同盟国である相模北条氏は武田方と対抗するが、遠江割譲を条件とする家康と武田の同盟には摩擦が生じ、家康は駿河侵攻から離脱する。

 信長とも良好な外交関係を持つ武田は家康の懐柔を図るが家康は武田との手切を表明し、以来東海地方における信長・家康・武田三者の関係は、武田と信長は同盟関係にあるが家康と武田は敵対関係で推移する。

 永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。

 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め信長包囲網を形成した際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。

 元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。

武田氏との戦い

 武田氏との今川領国分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされるが(『三河物語』)、永禄11年(1569年)には信濃国から家臣秋山虎繁(信友)に遠江国への侵攻を受け、同年5月に家康は今川氏真と和睦すると北条氏康の協力を得て武田軍を退けたが、武田氏とは手切となった。

 家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領国を確保し、元亀3年(1572年)10月には徳川領である遠江国・三河国への侵攻を開始した。 武田氏は信長とも友好的関係をもっていたが、信長と反目した将軍義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を迎合して挙兵する。

 信玄の元亀3年10月の遠江・三河侵攻も事前通告のないもので、これにより武田氏と信長は手切となる。家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、信長は反織田勢力への対応をはじめ武田軍には美濃国岩村城まで攻撃され十分な援軍を送ることができず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。

 「三方原戦役像」三方原で武田軍に敗れた後に描かせた肖像画 遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい家康が、ひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。

 遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。

 そのような中で、ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきた。その間、別働隊との合流も果たし、浜松城へ近づく武田軍であったが、長期戦を嫌う信玄は浜松城を悠然と素通りして、三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。

 しかしその結果、鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。

 夏目吉信に代表される身代わりに助けられて命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も、恐怖のあまり馬上で脱糞したとされている。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。なお、このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる(三方ヶ原の戦い)。

 浜名湖北岸で越年した後、三河への進軍を再開した武田軍によって三河設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。 武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。

 その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。

 奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。

 武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、武田氏の駿河領国までを脅かした。

 これに対して信玄の後継者である武田勝頼は反攻し、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を奪還し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。信長は家康に対して積極的な支援を行っていなかったが、天正3年5月の長篠の戦いでは主力を持って武田方と戦い、武田方は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくされ、家康は武田氏に対しての優位性を確保した。

 なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、家康は、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。

 天正7年(1579年)、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられた。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達された。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させた。

 この事件については諸説あるが、近年では、家康・信康父子の対立が真因とする説も出されている。

 長篠の戦い以降に信長と武田氏は大規模な抗争をせず、勝頼は信長との和睦(甲江和与)を模索しているが信長はこれを封殺し、天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領国へ本格的侵攻を開始した。

 織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、武田方の蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらに甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領国を確保した。

 勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡し、家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還を通過して帰陣している。

 家康はこの戦功により駿河国を与えられ、家康は駿河において信長を接待している。家康はこの接待の為に莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はことのほかこの接待を喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊となる。

本能寺の変

 天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。

 6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は討死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。

 その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国にまで進軍したが、このとき中国地方から帰還した羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀がすでに討たれたことを知った。

 一方、信長の領土となっていた旧武田領・甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も侵攻の気配を見せたため、信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、甲斐国の河尻秀隆は、一揆により殺された(家康が影で煽動したという説もある)。

 さらに、上野国の滝川一益は、中部の織田領を治めてまだ3ヶ月であり、軍の編成が済んでなかったことや、相次ぐ一揆により、配下は殺されたか逃亡したかのどちらかであるという有様であった。追い打ちをかけるように、同盟関係を築いていた北条氏が突如同盟を破り、北条氏直が率いる6万の軍が攻めてくるという、絶望的な状況であった。滝川一益は北条氏直と戦うも惨敗し、尾張国まで命からがら逃げ帰った。

 このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。

 一方、甲斐国と信濃国が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。徳川軍は、この北条軍と新府城、若神子で対陣。

 ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて真田昌幸が徳川軍に寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。

 和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がった。

秀吉との戦い

 信長死後の天正11年(1583年)、織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。家康は信長の次男・織田信雄と手を結び、これに対抗した。

 そして、徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙した。このとき、羽柴軍の兵力は10万人、徳川・織田連合軍は5万人であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前に羽柴軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。

 秀吉率いる羽柴軍本隊は犬山城に入り徳川軍と対峙し、膠着状態に陥った。森長可とその義父・池田恒興が岡崎城を奇襲すべく、上条城に寄ったのちに三好信吉(羽柴秀次)を総大将とする別動隊を率いて出陣した。

 しかし、家康はこの動きを察知し、逆に自ら別働隊に奇襲をかけて殲滅し、信吉を敗走させ、池田恒興・池田元助(恒興の嫡男)・森長可らを討ち取った(小牧・長久手の戦い)。

 これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、伊勢国の織田信雄を攻めた。織田軍には単独で羽柴軍と対抗できる力はなく、秀吉と単独講和してしまった。

 家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして、秀吉との講和条件として、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子とした。

 天正13年(1585年)に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため秀吉との対立で不利になった家康は、相模国の北条氏との同盟関係を強化するため、上野国・沼田を割譲することを約束した。

 ところが、沼田を支配していた信濃国・上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後国の上杉氏に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世や鳥居元忠を大将とした7,000人の軍勢を派遣し真田氏を攻めたが、真田軍の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉氏の援軍がきたこともあって、撤兵を余儀なくされた(第一次上田合戦)。

 また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次・本多忠勝ら反秀吉の強硬派と石川数正ら秀吉支持の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。その結果、数正が徳川氏から出奔して豊臣氏に寝返り、家康は窮地に陥った。

 この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を武田軍を見習ったものに改革していった。

 天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は実妹・朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。

 5月14日、家康は朝日姫と結婚するが、なおも臣従しようとしなかった。

 しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、ついに秀吉に臣従することを決意する。

 10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。

 こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

豊臣家臣時代

 天正14年(1586年)11月1日、家康は京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。

 12月4日、家康は本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。

 天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、秀吉の推挙により、8月8日に従二位、権大納言に叙任され、駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を称すことも許された。

 その後、家康は北条氏と縁戚関係にあった経緯から、北条氏政の弟で旧友の北条氏規を上洛させるなど秀吉と北条氏との仲介役も務めたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉は北条氏討伐を開始する。家康も豊臣軍の一軍として参戦した(小田原の役)。

 なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。

 これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の関東移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。

 その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総(他下野・常陸の一部)の6ヶ国に移封された。

 これは150万石から250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増ではあるが、徳川氏にとっては縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党などによる不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。

 しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高の上昇の割には実収入の増加も見込めない状況であった。しかし家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。

 関東の統治に際して家康は、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。

 ちなみに、四公六民という北条氏の定めた税率は、その後徳川吉宗の享保の改革で引き上げがなされるまで継承されることとなる。

 文禄元年(1592年)から秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。

 『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。渡海せずにすんだのは小田原の役で先鋒を務めたための優遇措置との見方もある。

 「際限なき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵で渡海を免れたために、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた。 しかし、渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。

 文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。この豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降は開発途上の居城・江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治システムを直接学ぶことになった。

 慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老の一人に家康を任命した。

 そして8月、秀吉は死去した。 

秀吉死後

 豊臣秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により五大老筆頭と目されるようになる。

 さらに秀吉の生前である文禄4年(1595年)8月に禁止されていた大名同士の婚約などを行う。その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。

 * 伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。

 * 松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。

 * 蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘。

 * 水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。

 * 保科正直の娘と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。

 またこの頃より家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。

 こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。

 3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が石田三成の大坂屋敷を殺害目的で襲撃する事件が発生した。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退陰を承諾して佐和山城に蟄居することになり、退去にあたっては護衛役として家康の次男結城秀康があたった。結果として政敵三成が失脚、公平ととれる措置を行った家康の風評が高まる結果となる。

 9月7日、家康は「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。

 9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。

 9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。

 家康は9月9日に登城した際、前田利長(前田利家の嫡男)・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を甲斐国・府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国・水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。

 さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院(まつ)を江戸に人質として差し出したことで出兵は取りやめとなる。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。

 家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し挙兵しようとする三成らの謀略であったとも言われている。

 また家康は秀頼の名のもと、諸大名への加増を行った。

 * 対馬国の宗義智に1万石を加増。

 * 遠江国・浜松12万石の堀尾吉晴に越前国・府中5万石を加増。

 * 美濃国・金山7万石の森忠政を信濃国・川中島13万7,000石に加増移封。

 * 丹後国・宮津の細川忠興に豊後国・杵築6万石を加増。

 * 薩摩国・大隅の島津氏に5万石を加増。

関ヶ原の戦い

 慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治、出羽国の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。

 上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。 これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。

 ところが、景勝の重臣・直江兼続が『直江状』と呼ばれる挑戦状を返書として送ったことから家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして上杉氏討伐を宣言した。

 このとき前田玄以・長束正家・増田長盛ら三奉行と堀尾吉晴・中村一氏・生駒親正ら三中老が中止を訴えたが聞き容れず、征伐を強行した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。

 これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。

 6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。

 ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。 この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。

 実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占領されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、毛利輝元を総大将として擁立し、家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。

 三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万人の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。

 さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国・小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。

 家康は、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方、ここに家康の東軍が結成された(小山評定) 。

 東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち、一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。

 一方で家康は江戸城に1ヶ月ほど留まり、160通近い書状を諸大名に回送している。 正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。

 9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には赤坂に着陣した。

 前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲、それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死している(杭瀬川の戦い)。

 9月15日午前8時、美濃国・関ヶ原においてついに東西両軍による決戦が繰り広げられた。

 開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、部隊間の連携が取れないうちに10時頃より徐々に東軍が優勢となり、島左近が黒田勢の銃撃により負傷した後は西軍は防戦一方となり、正午頃、かねてより懐柔策をとっていた小早川秀秋の軍勢が西軍の大谷吉継隊に襲いかかったのを機に形成が逆転する。

 さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が家康の本陣目前にまで猛攻してくるという非常に危険な局面もあったものの、家康率いる東軍のほぼ完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。

 家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛、10月1日には六条河原で処刑した。

 そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。

 秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配されることとなる。

 その結果、豊臣氏は摂津・河内・和泉の3カ国65万石の一大名、家康が実質上の天下人として認識されるようになった。

征夷大将軍

 関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出、伏見城にて政務を執ることとなる。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行った。

 「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため、家康は神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を源義家に通じるように整備させた。

 なお、近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓を源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。

 後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。

 他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている。

 なお、家康は松平姓から(勅許を得て)徳川姓に改姓した際に、「三河守の任官には藤原氏を称する必要がある」との近衛前久の勧めにより本姓を藤原氏と公称していた。

 また、実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説とする説がある。

 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣、六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した。

 武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は足利義満から始まった慣例である。

 同年3月12日、伏見城から二条城に上洛。

 3月21日、衣冠束帯をつけ行列をととのえて参内し、御所で将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。

 3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。

 また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応した。

 これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となり、名実ともに豊臣氏を上回る地位を確立した。幕府開府に当たって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。

大御所政治

 慶長10年(1605年)4月16日、家康は、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。

 同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿がこれを拒絶する。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。

 慶長12年(1607年)には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。

 慶長16年(1611年)、二条城にて秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣氏はこれを拒絶する方向でいたが、将軍・秀忠は秀頼の義父である関係からあくまで「義父への挨拶」という名目で上洛を要請し、加藤清正等の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。

 この会見により、天下の衆目に「家康が日本の武家の棟梁である」ことを示したとするのが一般的な見解であるが、豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感することになったとの見解もある。

大坂の陣

 最晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であり続けた。一大名の位置に転落したとはいえ、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった。

 また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には、秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している。

 さらに、徳川氏は内部に問題を抱えていた。家康の次男であり、家康も秀忠も礼儀を尽くすなどの、徳川家の中でも別格の存在であり、丁重な扱いをされていた結城秀康は、「幕府が豊臣を攻めたら、自分は堂々と大坂城に入り、秀頼を守る」と公言していた。

 また、将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。

 また将軍家でも、秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。

 さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。

 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している。

 家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また、(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。

 しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして幕府より警戒されることとなる。

 そのような中、慶長12年(1607年)には結城秀康が、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。

 そして、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。

方広寺鐘銘事件

 豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行うことにした。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」で、大御所家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった。

 さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。

 これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し、家康に弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。

 そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。

 この事件は、豊臣家攻撃の口実とするために家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。しかし、清韓自身は家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しており、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している。

 当時、基本的に諱で呼ぶことができるのは両親、主君そして敵であって、通常は名字+官職名もしくは通名などで呼び諱で呼ぶことは非常に無礼とされたことを考えると、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の手落ちか、あるいは主家という立場から意図的に侮蔑したともとれる。そして同時に留意しなければならないことは、家康の詰問に対し、それを批判したり調停を買って出る大名がこの段階では豊臣恩顧の大名においても存在しなかった点にある。

 この問題は当時では幕府方の言い分が正しいことを裏付け、また豊臣氏は恩顧大名からも見放された存在であったとも取れるのである。

 また、その後も鐘は鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。

大坂冬の陣

 慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。

 徳川軍は木津川口の戦い・今福の戦い・鴫野の戦い・博労淵の戦いなどの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは大敗を喫した。とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。

 午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。

 家康は戦術的には強固な城郭を落とすことはできなかったが、淀殿や女官を心理的に疲弊させることで有利な条件で和睦にもち込むという戦略的勝利を得た。

 和議の条件は大坂城の総堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破壊であった。

 慶長20年(1615年)1月中旬までに大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。

大坂夏の陣

 この頃豊臣氏は主戦派と穏健派で対立、主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す仕儀に出た。

 そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めているのではないか」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。そして、豊臣氏に要求が拒否されると、侵攻を開始した。

 これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相ら勇将を相次いで失う。しかし、徳川軍は大軍ゆえの連携の拙さなどから、豊臣軍の真田信繁隊に本陣にまで突入され、毛利勝永隊4,000には、これに当たった6万もの幕府軍が、あっという間に敗退・四散した。

 一時は本陣の馬印が倒れ家康自身も自決を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により信繁は戦死、勝永は秀頼を守るために、軍をまとめてなんとか大坂城に退却したが、雪崩のように攻め寄せる、15万もの幕府軍を支えきれず、ついに大坂城は落城した。

 5月8日、秀頼と淀殿そしてその側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害し、ここに豊臣氏は滅亡した。

 「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあり、山岡荘八の小説『徳川家康』ではこの説をとっている。

 しかしこれは、主筋であった豊臣氏を滅ぼしたことへの非難を避けるための後世の創作であるという説もある。

 その後大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。

 明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。

最晩年

 元和元年(1615年)、家康は禁中並公家諸法度を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下を安泰なものとした。

 元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。

 3月21日に朝廷から太政大臣の位を贈られた。

 4月17日の巳の刻(午前10時ごろ)に駿府城において薨去した。享年75。

 死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説が有力であった。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日なので、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。

 近年では、諸症状からみて胃癌が死因であるとも考えられている。

 なお、家康が問題の天ぷらを食べたのは田中城(現・静岡県藤枝市田中)であった。 家康は調剤知識があり、自身の腹痛も自家調剤の薬品で治そうとし、それを諌めた侍医を信州に流罪にまでしている。

 辞世の句として『東照宮御実記』に以下の二首を詠んだと伝わっている。

 * 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」

 * 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」

 また、江戸城内においては天ぷらを料理することは禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるためという説明がなされることもあるが、実際には、大奥の侍女の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである。

 

 

 
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