Header image header image 2  
 群雄割拠  戦国武将伝
 一覧へ戻ると行一覧へ戻る
 

 徳川 秀忠

 徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。

 生涯

出生から後継者争い

 徳川家康の三男として、遠江国浜松に生まれ、乳母大姥局によって養育される。母は側室の西郷局。

 母の実家・西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河国の有力な国人であった。 同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。

 長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の・秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。

 秀吉の推挙により14歳で中納言に任官し、秀吉から羽柴の名字を授けられ、「江戸中納言」と称した。

 天正18年(1590年)、秀吉の養女で織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となる。

 文禄4年(1595年)には織田信長の姪で同じく秀吉の養女江(父は浅井長政、母は信長の妹市で姉が秀吉の側室淀殿)と再婚。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の本戦には参加できなかった。

 そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている(家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。

 律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。

 ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。

征夷大将軍

 慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年(1605年)にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。

 秀忠が将軍職に就任するための上洛時、関東・東北・甲信の諸大名をあわせ10万人規模の軍を率いた。

 秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。

 大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の所謂「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。

 豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。 なお将軍襲職の際、源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある(岡野友彦『源氏と日本国王』)。

 『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってなったのだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。

 元和2年(1616年)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、酒井忠世・土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。

 大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。

 一方で、弟の松平忠輝・甥で娘婿でもあった松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。

 また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。

隠居

 元和9年(1623年)に将軍職を嫡男・家光に譲る。

 父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。

 当初、駿府に引退した家康に倣い自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。

 晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。

 寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。

 家光に対して『徳川実紀』では、「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」との遺言を残している。

 徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。

 

 

 
 一覧へ戻ると行一覧へ戻る