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 群雄割拠  戦国武将伝
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 高橋 紹運

 高橋 紹運 / 高橋 鎮種(たかはし じょううん / たかはし しげたね)は、戦国時代の武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父に当たる。

 同じ大友氏配下の武将立花道雪に劣らぬ勇将であった。

 島津氏が大軍を率いて攻めてきた際に岩屋城に寡兵で籠り、半月もの間抵抗して玉砕した。 初名は吉弘 鎮理といい、のちに宗麟の命令で高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種と称した。 戦国期の九州を代表する名将の一人として知られる。

 生涯

 天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として生まれる。

 永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、これに豊前や筑前、肥前の国人が連携して反乱を起こしたとき、父・鑑理や兄の鎮信と共に出陣して武功を挙げ、戸次鑑連(立花道雪)が、豊後の朽網鑑康、筑後の蒲池鑑盛、田尻鑑種らを指揮したこともあってこれを鎮圧した。

 その後大友宗麟の命令で高橋氏の名跡を継ぐことを命じられ、姓を高橋と改め、名も同時に紹運と改め、岩屋城と宝満城の2城を与えられた。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪の補佐役を務めながら筑前支配に貢献した。

 しかし天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗を喫して衰退し始めると、肥前の龍造寺隆信や筑後の筑紫広門、筑前の秋月種実らが大友領への侵攻を開始する。

 このとき宗麟は日向や筑後方面で島津氏・龍造寺氏と戦っていたために援軍を送れず、紹雲の守る筑前は半ば敵勢力の中に孤立した状況にあった。紹運は道雪と協力して秋月種実や筑紫広門らを破り、その智略・武勇を見せつけたのである。

 天正9年(1581年)、実子のない道雪から嫡男・統虎(後の立花宗茂)を立花家の養嗣子にと請われる。統虎は高橋家の大事な跡継ぎでありその優れた器量も見抜いていたことから最初は拒絶していたが、実の父のような存在である道雪の度重なる要請により遂にこれを受け入れた。

 天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津氏の前に敗死すると、宗麟の命令で道雪と共に筑後奪回を目指して侵攻を開始する。

 立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後の大半を奪回したが、天正13年(1585年)に道雪が病死すると事態は急変する。

 耳川の戦いで大友氏の宿老・家老格の名将らはほとんど戦死し、後を継いでいたのは経験不足の未熟な武将ばかりで、特に筑後方面では盟主といえる蒲池鑑盛の戦死もあってそれが表面化していたが、道雪の死去で筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまったのである。

 さらに道雪の死を好機と見て筑紫広門が居城の宝満城を攻撃して奪取したため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城奪回に戻る。そして広門と和睦し、彼の娘を次男の立花直次(高橋統増)の正室に迎えた。

 天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく2万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。

 結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にし、岩屋城は陥落した。享年39。

 

 
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