Header image header image 2  
 群雄割拠  戦国武将伝
 一覧へ戻るさ行一覧へ戻る
 

 佐竹 義宣(右京大夫)

 佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の傍系常陸源氏 佐竹氏。佐竹氏19代当主。久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の女。伊達政宗は母方の従兄弟にあたる。

 幼名は徳寿丸。通称は次郎。官位は従四位上、左近衛中将、右京大夫。

 生涯

豊臣政権時代

 天正17年(1589年)、父・義重の隠居により家督を相続する。

 天正年間末期(1590年頃)の佐竹氏は、北から伊達政宗、南から北条氏直の圧迫を受けて滅亡の危機にあったが、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると義宣は秀吉のもとに参陣、忍城攻めや続く奥州仕置に従って所領を安堵された。

 このとき、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれたという。

 その後、秀吉の力を背景にして常陸国内で敵対していた江戸重通を追い、さらに南方三十三館の国人衆を謀殺して、常陸国(結城氏領を除く)54万石を領有することに成功した。

 石田三成と親交があり、慶長4 年(1599 年)に起きた加藤清正など7将による三成襲撃事件では宇喜多秀家、徳川家康と連携して三成を救出している。この時、「治部(治部少輔、三成の官位)が死んでは生き甲斐が無くなる」という言葉を残したと言われる。

 慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いで、恩義と友情を重視した義宣は家臣の反対を押し切って西軍(三成方)寄りの立場を表明した。しかし、父・義重が東軍(家康方)寄りの立場を明言して行動するなど、他の多くの大名と同様に一門の総意としての態度がはっきりしていなかった。

 東軍が岐阜城を落とすと家康のもとに戦勝祝いの使者を派遣し、配下の佐竹義久(東義久)隊が徳川秀忠のもとへ赴いたほかは中立を決め込んだ。

 戦後の慶長7年(1602年)、その曖昧な態度を家康から咎められて、常陸水戸54万石から出羽秋田21万石(旧安東氏・戸沢氏・小野寺氏領)へ減転封される。

江戸時代

 秋田移封後は、土崎湊城を廃して久保田城・角館城・横手城・大館城を拠点とした内政を行った。渋江政光・梅津政景・須田盛秀といった旧家臣及び関東・奥州の旧大名の遺臣達を登用し、積極的に開墾を進めて家中の建て直しに尽くした。これにより、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。

 しかし一方で他家旧臣で若手の渋江政光を重用することが譜代の老臣の反感を買い、家老の川井忠遠らによる義宣、政光の暗殺謀議も起こっている。これは逆に義宣が暗殺を企てた家臣らを粛清して決着した(川井事件)。

 慶長19年(1614年)の大坂の陣は徳川方として参陣。冬の陣では豊臣軍の木村重成・後藤基次相手に苦戦し、渋江政光が戦死している(今福の戦い)。

 寛永10年(1633年)、江戸神田屋敷で死去。享年64。 家督は甥にあたる弟岩城貞隆の子義隆が継いだ。

* 法名:浄光院殿傑堂天英大居士

* 墓所:秋田県秋田市泉三嶽根 天徳寺

 

 

 
 一覧へ戻るさ行一覧へ戻る