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 群雄割拠  戦国武将伝
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 仁科 盛信

 仁科 盛信(にしな もりのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。

 甲斐国守護、武田晴信(信玄)の五男、母は油川信守の娘で側室の油川夫人。信濃国安曇郡の国人領主である仁科氏を継承し、武田親族衆に列する。

 勝頼末期に織田信長の甲斐侵攻に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続く中、高遠城において最後まで抵抗し討死した。

 兄弟には同じく信濃の諏訪氏を継承し後に武田氏を継承した異母兄の武田勝頼や、同母の弟妹には駿河葛山氏を継承した葛山信貞・松姫(織田信忠婚約者)・菊姫(上杉景勝正室)がいる。初名は武田晴清。

 生涯

 武田氏は晴信期の天文年間から信濃侵攻を本格化し、信濃国人の被官化が進められていた。安曇郡を領する仁科氏は天文22年に武田方に帰属し、安曇郡は仁科盛政支配期を経て直轄領化されている。

 晴信期の信濃支配では、征服した信濃名族と婚姻関係を結び親族衆に列することで懐柔させることが行われていたが、盛信も永禄4年(1561年)に父の意向で仁科氏の名跡を継ぎ、仁科氏の通字である「盛」の偏諱を受け継ぎ、親族100騎持の大将となっている。

 天正年間には仁科氏当主として諸役免許や知行安堵を行っており、武田領国と敵対する越後国との国境警備を指揮している。 信玄の死後は当主となった異母兄である勝頼に仕え、甲越同盟の締結後にも国境警備を務めている。

 勝頼後期には織田・徳川勢力との敵対が激化し、天正9年(1581年)には対織田・徳川の軍事再編成に際して信濃国高遠城の守備を任された。

 天正10年(1582年)、織田信長の命により織田軍による武田攻めが始まると、兵3000が籠もる高遠城は信長の嫡男・織田信忠率いる5万の大軍に包囲された。このとき、信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信は勧告を拒否。降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。

 高遠城は織田軍の猛攻に晒され、盛信は奮闘した後、自刃。約500名余りの家臣も共に討ち死にして高遠城は陥落した。享年26。

 切腹後首級は信忠のもとに届けられたが、盛信を敬慕する領民によって胴体は手厚く葬られた。墓所には現在でも献花が絶えぬと言う。

 

 
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