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 群雄割拠  戦国武将伝
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 毛利 隆元

 毛利 隆元(もうり たかもと)は、戦国時代の武将。安芸の守護大名、戦国大名。

 出自

 本姓は大江氏。家系は大江広元の4男・毛利季光を祖とする国人領主・毛利氏。周防・長門・安芸・備後・備中守護職として、毛利氏による中国地方支配を正当かつ盤石なものとした。

 毛利元就の嫡男で、毛利氏の第14代当主。吉川元春、小早川隆景の同母兄。正室は大内義隆の養女(長門守護代・内藤興盛の娘)である尾崎局。後に豊臣政権で五大老となった毛利輝元の父。

 父に先立って死去したため、当主として実権を握ることはなかった(江戸時代までは、家督を継いだことすら一般に知られていなかった)が、優れた内政手腕によって父を陰ながら支え続けた。 官位は従四位下・大膳大夫。

 贈正三位。諱は大内義隆の偏諱を受けたもの。

 生涯

誕生、人質時代

 大永3年(1523年)、毛利元就の嫡男として安芸多治比猿掛城で生まれた。幼名は少輔太郎。

 天文6年(1537年)12月1日、当時元就が従属していた周防の戦国大名・大内義隆のもとに人質として送られる。山口で人質生活を送るが、大内氏からの厚い待遇を受け、非常に優雅な生活ぶりだったとされている。少輔太郎は弟の隆景ほどではないが端整な容姿だったとされ、守護の大内義隆から大層気に入られた。

 同年中に義隆を烏帽子親として元服し、一字を賜って「隆元」と名乗った。また、後年には義隆の養女を正室として迎えている。嫡男を人質としたことで、毛利氏は大内氏から絶大な信頼を置かれることになるが、隆元は義隆との交流により高い知識と教養を身につけた反面、必要以上に穏和な性格となった。

 当時の隆元の優雅な暮らしぶりは『毛利隆元公山口逗留日記』にも書かれている。 また、山口滞在中の隆元は大内家重臣の内藤興盛(長門守護代)や江良房栄、人質仲間の天野隆綱などとも親交を結んだ。特に同年代であった陶隆房(後の陶晴賢)や弘中隆包らとの親交は深く、帰国後も大内氏との外交の一環として連絡を取り合っていたとされる。

 天文9年(1540年)、大内義隆から吉田郡山城に戻ることが許された。初陣はその直後に勃発した吉田郡山合戦とも、第一次月山富田城の戦いとも言われている。後世の著作でもこれらの記述は前者と後者に分かれており、隆元が初陣を迎えた時期がいつなのかは正確には判っていない。隆元は元就と共に富田城攻めに従軍し、その後の撤退戦(七騎落ち)などの修羅場を経験した(『萩藩閥閲録』によると、この際の蓮池縄手の戦いで、隆元は初めて家臣の児玉就光に感状を与えている)。

家督相続、厳島の戦い

 天文15年(1546年)、元就の突然の隠居表明により、家督を相続して第53代毛利家当主となる。

 但し、これは元就が後方で謀略活動をおこないやすくするための一種の儀式であるとの見方が強い。事実、元就は隠居後も毛利家の実権を掌握しており、隆元は依然として元就麾下の一武将の扱いであった。

 一般には元就が正式に隠居表明したのは弘治3年(1557年)であるとされているが、隆元に毛利家の実権が移譲されることはなかった。

 またこの頃から、元就の要請により老臣・志道広良が隆元の訓育にあたるようになった。隆元は穏和で教養豊かな文治の将として名高かったが、反面、武将としての気概や機転に欠ける部分があったため、それを心配した元就や広良から再三にわたって訓戒されることとなった。広良が残した「君臣は水と船の如く」という言葉は、この時期に発せられたものとされる。また、元就からは書状で「能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要に候。謀多きは勝ち、少なきは負け候と申す」と度々叱責されている。また元就のこの言葉から、当時の隆元は義隆の影響か文芸遊興に時間を費やすことが多かったことが窺える。

 天文18年(1549年)、大内義隆の養女で大内氏の重臣・内藤興盛の娘と結婚する。後にこの女性は隆元が生活していた屋敷(尾崎丸)の名前から「尾崎局」と呼ばれ、幸鶴丸(後の輝元)を含む1男1女に恵まれる。隆元はこの女性を深く愛したとされ、生涯側室を持たなかった。(また弟の元春、隆景も生涯側室を迎えていない。)戦場から妻にあてて「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という律儀な一文から始まる手紙が残っている。

 翌天文19年(1550年)、父・元就の主導の下、専横甚だしい井上党が粛清を受け、井上元兼ら重臣一派が殺害された。その後、新しい毛利家の行政官僚組織として、隆元直属の五奉行制度が発足した。隆元側近の赤川元保を筆頭奉行とし、国司元相、粟屋元親、元就の側近であった児玉就忠と桂元忠も参画した。この組織の創設に隆元は大いに貢献したとされるが、主導権を握っていたのはやはり元就であった。またこの五奉行制度自体も、当初は親隆元派の官吏達と親元就派の武将達との対立によって運営が上手くいかず、元就も隆元も頭を悩ませた。しかし、隆元がこの時期に著した訓戒状の条文の多くは、後の毛利家の御家訓に収録され(後述)宗家運営の模範とされるのである。

 天文20年(1551年)、大内義隆が重臣の陶隆房(陶晴賢)により自害に追い込まれると、いずれ陶氏は毛利にも攻めてくると判断して陶氏打倒を主張した(恩顧ある義隆を殺された義憤に駆られたという説もある)。しかし、元就は戦力的劣勢を理由に慎重な姿勢を崩さなかった。そこで隆元は重臣達を動かして元就に翻意を促すべく、家中に陶氏の横暴無慈悲ぶりを喧伝して回った。その甲斐あってか、間もなく元就もまた陶との対決を決めることとなる(但し、元就はかなり以前から陶との断交、大内の併呑を決めていたとされる。隆元の強硬策に敢えて反対したのは、家中に陶氏の恐怖を浸透させて意見の一致を図るのと共に、陶方に「毛利は意見の統一ができていない」と思わせて油断させるための謀略だったのではないかと言われている)。

 弘治元年(1555年)、父と共に旧友の陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼした。隆元は元就と共に本陣を率いて厳島に渡海した。また、暴風雨に怯えて渡海に反対する将兵らを奮起させるため、隆元は元就の制止を振り切って自ら先立って船に乗り込んだといわれている(当初、元就からは従軍・渡海を拒絶されたが、隆元は「自分一人生き残ったところで、御家の弓矢が成り立ちましょうか」と嘆願して同行を許可されたという逸話がある)。

 弘治3年(1557年)、父の隠居により、家督を継いで毛利家の当主となる(天文15年相続説があるのは先述の通り)が、実権は隠居した元就が引き続き主導していた。これは、毛利家を覆う事情が依然として険しかったという理由もあるが、自分の器量に自信が持てない隆元が、実権の移譲を辞退したためともされる。

守護就任、謎の最期

 弘治3年(1557年)に防長経略を行い、大内義長を滅ぼした。しかし旧大内領をめぐって豊後の大友宗麟が西から、出雲の尼子晴久が北から侵攻してきたため、元就は北の尼子氏に、隆元は西の大友氏に対応することになった。毛利氏にとっては非常に危機的な時期ではあったが、隆元は弟・隆景の支援を受けつつ大友氏を撃退することに成功した。

 永禄2年(1559年)に、元就との連署で正親町天皇の即位料を献納し、従四位下大膳大夫に任じられた。

 永禄3年(1560年)、第13代将軍・足利義輝より安芸の守護に任じられ、永禄5年(1562年)には備中・長門の守護職、永禄6年(1563年)に周防の守護職に任じられた(この際、隆元は義輝から直垂を下賜されたが、隆元は遠慮して元就に譲った)。これにより毛利氏は、正式に中国地方の大名としての立場を認められたことになった。

 永禄3年(1560年)に尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退し始めると、九州戦線を受け持っていた隆元は幕府の仲介を利用して大友宗麟と和議を結び、尼子討伐に全力を傾けるようになる。

 しかし永禄6年(1563年)9月1日、尼子攻めに参加する途上、毛利氏傘下の国人である備後の和智誠春からの饗応の直後、安芸の佐々部で急死した。享年41。

 死因は食中毒とも毒殺とも言われ、訃報を耳にした際の父・元就の悲嘆は尋常なものではなかったとされる。

 その後、元就は和智誠春・柚谷新三郎・湯谷又八郎・又左衛門・赤川元保らを暗殺の疑いで誅伐、もしくは切腹に追い込んだ(但し、赤川元保に関してはその後冤罪の可能性が浮かび、後悔したとも)。

 毛利家の家督は隆元の嫡男・輝元が継いだが、若年のために元就が実質的な当主として主導権をなおも握ることとなった。

 

 
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