Header image header image 2  
 群雄割拠  戦国武将伝
 一覧へ戻るも行一覧へ戻る
 

 毛利 輝元

 毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された。長州藩初代藩主(ただし、藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)。

 生涯

毛利氏

 山陰の大守護大名山名氏や山陽の大守護大名大内氏の家臣として毛利氏は戦国の世を生き延びてきたが戦国時代の当主毛利隆元もまた大内義隆の家臣であった。

家督相続

 天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国(現在の広島県)に生まれる。幼名は幸鶴丸。

 永禄6年(1563年)に父・隆元が急死したため、11歳で家督を継ぐ。しかし若年のため、祖父毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。

 永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され元服し、輝元と名乗り、同年の月山富田城で初陣を飾る。

 元亀2年(1571年)、祖父・元就が死去すると、毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。

 天正2年(1574年)には15代将軍足利義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に叙任され、室町幕府の相伴衆ともなった。

織田氏との戦い

 その後、輝元は中国地方の覇者となるべく各地に勢力を拡大していく。元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利し、さらに旧主家である大内輝弘を退け九州や中国地方に勢力を拡大し続けていた。

 ところが天正4年(1576年)2月、織田信長によって都を追われた将軍・足利義昭が領内の備中に動座してきたため保護する。さらに石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、信長と激しく対立する。足利義昭は毛利氏のもとにおいて反信長勢力を迎合し、越後の上杉謙信はそれまで信長と同盟関係にあったが義昭の呼びかけにより信長と敵対し、そうした外交的背景から緒戦の毛利軍は連戦連勝し、7月には第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り、大勝利を収めた。

 また、天正6年(1578年)7月には上月城の戦いで、織田方の羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ。

 しかし3月に上杉謙信が死去、更に11月の第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。

 天正7年(1579年)には毛利氏の傘下にあった備前国の宇喜多直家が織田信長に通じて、毛利氏から離反した。

 天正8年(1580年)1月には、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、播磨三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する(三木合戦)。

 翌天正9年(1581年)には因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城し、毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後国の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれてゆく。

 天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せている清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃する。

 攻防戦の最中の同年6月2日、京都にて本能寺の変が発生。明智光秀の謀反により織田信長は滅びた。秀吉は信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。戦況の不利を悟り、和睦を願っていた輝元や小早川隆景らはこの和睦を受諾する。

 結果、備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹。こうして毛利氏は危機を脱した。

豊臣政権時代

 信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。

 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている(資料が残っていないだけで、柴田側にも同様に戦勝祝いを贈っていた可能性がある)。

 賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として輝元自身よりは年少であるが、叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し、秀吉に臣従した。

 その後は秀吉の命令で、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州の役にも先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。その結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など120万5,000石の所領を安堵された。豊臣姓と羽柴の名字を許され羽柴安芸中納言と称された。

 天正17年(1589年)、当時の交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始。

 天正19年(1591年)には、長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城を廃して、まだ工事中であった広島城に入った。 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣した。

 慶長2年(1597年)には最後の両川となった小早川隆景が死去。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることを良しとせず、毛利家に帰参した。しかし、これらの者の中には毛利家中で外様視されることを嫌い、出奔する者が多かった。後に隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元によって殺害された。

 同年、これまでの功績を評価されて、秀吉より五大老に任じられた。

 慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。

関ヶ原の戦い

 慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展。

 6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に石田三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、徳川家康に次ぐ実力を持つ毛利輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾。

 輝元は7月17日、三成らに擁されて大坂城西の丸に入った。

 その後は西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させるに止まった。そして三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。

 家康率いる東軍と三成率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。

 しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元は隠居、秀就への周防・長門2ヶ国の安堵となり、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の37万石に大減封されたのである。

江戸時代

 関ヶ原の戦い後の10月、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、嫡男の毛利秀就に家督を譲ったとされている。これは家康が輝元に西軍総大将としての責任を問い隠居とし、周防・長門2カ国は秀就を宛名として与えたためである。実際にはこれ以後も法体のまま実質的な藩主の座にあった。

 慶長8年(1603年)には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌慶長9年(1604年)、長門萩城を築城を開始し、居城とした。

 翌慶長10年(1605年)には五郎太石事件に絡んで、熊谷元直と天野元信らを粛清した。

 慶長19年(1614年)からの大坂の役においては、冬の陣で密かに重臣の内藤元盛を佐野道可と称させて大坂城に送り込む一方で(軍資金を提供したとも)、家康の命を受けると病を押して出陣するが、さしたる戦闘を毛利勢はほとんど行わないまま和議が豊臣・徳川の間で結ばれる。しかし、夏の陣ではなかなか出陣命令が出ず、痺れをきらした秀元隊が本隊より先駆けて豊臣軍相手に戦った(この行為は結果として家康から賞賛された)。

 戦後、佐野道可を大坂城に送り込んだ疑惑が徳川氏に伝わり、佐野道可こと内藤元盛が自害した後、口封じのためにその子内藤元珍と粟屋元豊を自害に追い込み、元珍との約束を反故にして元珍の子内藤元宣を幽閉して、自家を守った。(佐野道可事件)

 この大坂の役の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。

 元和4年(1618年)には、以前より不仲であった吉見広長への讒言を受け、謀反の企て有りとして追討して殺害した。

 元和9年(1623年)、正式に隠居した。

 寛永2年(1625年)4月27日、萩の四本松邸で死去した。享年73(満72歳没)。

 このとき、長井元房という武将が殉死している(元房の墓所は輝元夫婦と同じ)。

 

 
 一覧へ戻るも行一覧へ戻る