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 群雄割拠  戦国武将伝
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 三好 長逸

 三好長逸(みよしながやす、生年不詳 - 天正元年(1573年?))は、戦国時代の武将。三好氏の一族。通称は孫四郎、別名として長縁ともいう。後に北斎と号す。官位は従四位下日向守。

 三好三人衆の1人で、その筆頭格であった(他の2人は三好政康、岩成友通)。

 三好一族の1人で、三好之長の孫で、三好長則の子にあたるという。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。

 生涯

 生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。

 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、有馬重則の要請に応える形での播磨攻めや、丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、長慶に反発する室町幕府13代将軍足利義輝とも戦った。

 長逸は三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主を任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。また、同名衆にも列せられ、長慶の弟義賢や松永久秀よりも先に従四位に叙せられるなど、非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。

 長慶の死後は甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)にはついに足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから義継や久秀とは次第に対立を深め、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。

 この過程で永禄10年(1567年)、三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃(東大寺大仏殿の戦い)、焼亡する事件が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・松永方にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に三人衆方の優勢で進んでいたようである。

 しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継、松永久秀はいち早く信長に恭順する。

 三好長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。

 永禄12年(1569年)の本圀寺襲撃(六条合戦)において、長逸は兵3000を率いて摂津池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三好三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。

 しかし翌元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。

 同年6月、摂津池田城で謀反を起こして城主池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。

 「元亀争乱」と呼ばれる一連の動乱において、野田城及び福島城を根拠地とする長逸ら三好軍の抵抗は激しかったが、これに対する信長の攻撃は苛烈なものであり、同じく信長と不仲な摂津に本拠をもつ石山本願寺の危機感を煽ることになり、ついには本願寺の反信長陣営への参加を促すことになる(石山合戦の勃発)。

 三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、同年11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。

 この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。

 元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに三好義継、松永久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。

 だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。

  摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが長逸の確認できる最後の事跡である。

 一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。

 

 
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