毛受 勝照
毛受 勝照(めんじょう かつてる、? - 天正11年(1583年))は、戦国時代の武将。他に名乗りを「家照」、「吉親」、「照景」などとする史料もある。通称は「荘介」、「勝介」、「勝助」など。「毛受」の姓は「めんじょ」「めんじゅ」「めんじょう」等、読み方が複数あるので、別の読み方であった可能性もある。また『佐久間軍記』では「免受」と記されている。
概要
十二歳で柴田勝家の小姓として取り立てられ、後に小姓頭となり一万石を与えられる。
元亀二年(1571年)の伊勢長島攻めに於いて、勝家軍の馬印が一揆勢に奪われるという事態に陥った事があった。(この戦いは、当初優勢だった織田軍が、一揆勢の猛反撃を受け、氏家直元や、織田信長の一門衆が多く討ち死にした激戦である。)これを奪われたままでは武門の恥と、死を覚悟して勝家は突入を試みたが、家臣に諌められた。その間に毛受荘介(当時)は敵陣に突入し、見事馬印の奪還に成功した。勝家は大いに喜び、自身の名前の一字「勝」の字を与え、勝介勝照とした。あるいは「勝」と「家」の字の両方を与え、勝介家照と名乗らせたとも伝わる。
1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いで勝家軍が敗れ、勝家が討死を覚悟すると、退却を進言する。自らは時間稼ぎの為に兵200を率いて勝家の馬印「金の御弊」を掲げ、勝家の身代わりとなる。秀吉勢の大軍を惹きつけ果敢に応戦、勝家の逃走時間を十分に稼いだとみて最後は自刃した。
毛受氏の子孫は、三宅姓に名を改め、その後は前田氏に仕えたという。(のちに姓は毛受に復姓)
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