Header image header image 2  
 群雄割拠  戦国武将伝
 一覧へ戻るま行一覧へ戻る
 

 前田 利常

 前田 利常(まえだ としつね)は、安土桃山時代から江戸時代の武将で、加賀藩第2代藩主である。加賀藩祖前田利家の四男、母は側室の寿福院。幼名は猿千代、犬千代。初名は利光。兄弟に幸姫、前田利長、前田利政など。

幼少期~加賀藩主

 幼少の頃は越中国守山城代の前田長種のもとで育てられる(長種の妻は長姉・幸姫)。 父・利家に初めて会ったのは、父の死の前年の慶長3年(1598年)に守山城を訪ねた折りのこと。利家は6歳の利常を気に入り、大小二刀を授けた。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いの際、西軍についた小松城の丹羽長重の人質となった。長重が西軍敗北のため東軍に講和を望んだためである。そのとき長重が利常に梨を切ったという話もある。

  同年、跡継ぎのいなかった兄・利長(初代藩主)の養子となり、名を利光とし、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えた。この時珠姫はわずか3歳だった。将軍徳川家の娘を娶ったことは利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになる。

 慶長10年(1605年)利長は隠居し、利常が前田氏の家督を継ぐ。

 慶長19年(1614年)、慶長20年(1615年)には大坂の陣の冬・夏両陣にも従軍している。冬の陣の際には真田信繁隊と激戦を繰り広げた(真田丸の戦い)。

 大坂夏の陣に際しては、城方が巻き返した折前田軍中から城方に味方するようにとの声が起こったが取り合わなかったという逸話が伝わる。

加賀藩主~晩年

 寛永6年(1629年)、名を利常と改める。

 寛永8年(1631年)、将軍秀忠の病中に金沢城を補修したことなどから謀反の嫌疑をかけられるも(「寛永の危機」)、自ら嫡男光高とともに江戸に下り、家臣らの奔走もあってからくも疑いを解くことができた。その後、嫡男・光高の正室に家光の養女・大姫(水戸徳川家の徳川頼房の娘)を、嫡孫・綱紀の正室には将軍・家光の信頼厚い保科正之の娘・摩須姫を迎えるなど、徳川家との関係改善に努めた。

 寛永16年(1639年)に嫡男の光高に家督を譲るとともに、次男の前田利次に富山藩を、三男の前田利治に大聖寺藩を分封し、20万石を自らの養老領として小松に隠居した。

 正保2年(1645年)、光高が急死し、跡を継いだ綱紀がまだ幼かったため、後見人として藩政を補佐した。 利常は治世の間、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも巧みにかわして120万石の家領を保った。内政において優れた治績を上げ、治水や農政事業(十村制、改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築いた。また御細工所を設立するなど、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励し、加賀文化の基礎を築いた。

 万治元年(1658年)死去。法名は微妙院殿一峯克巌大居士。墓所は石川県金沢市野田町の野田山墓地。

 

 
 一覧へ戻るま行一覧へ戻る