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 群雄割拠  戦国武将伝
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 前田 慶次(利益)

 前田 利益(まえだ とします、天文2年(1533年)?/天文10年(1541年)? - 慶長10年(1605年)?)/慶長17年(1612年)?)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将で、滝川一族の出身、前田利家の義理の甥。妻は前田安勝の娘で、間に一男三女(五女とも)をもうけた。嫡男の前田正虎は従兄弟の前田利常に仕えた。娘は、戸田方勝(方邦)の妻、北条庄三郎(北条氏邦末子)の妻など。

 概略

 現在流布している前田慶次郎の人物像は、『上杉将士書上』に記載された略伝の記述や、『常山紀談』・『可観小説』・『翁草』の逸話、明治~昭和にまとめられた『加賀藩史料』や『前田慶次道中日記』、米沢市の郷土史料類、などを基礎にして、隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』、それを原作とした原哲夫の漫画『花の慶次』によって、広く知られている。

 諱

 通称は宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次など。諱は利益の他、利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっている。

 現在の歴史本などでは利益、又は利太と表記する事が多いが、本人自筆のものでは啓二郎(前田慶次道中日記)、慶次(倉賀野綱秀宛書状)、利貞(亀岡文殊奉納詩歌、本人旧蔵とされる徳利)のみ。

 本人自筆の物以外での当時の史料として伝わっているものは、慶二(前田利家からの書状)、利卓(野崎知通の遺書)。利益、利太、利大の表記に関しては二次史料以降のものに記述が見られる。

 また浪人時代は「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗った。

 『鷹筑波』『源氏竟宴之記』によると「似生」と号し、多くの連歌会に参加した。

 生没年

 生年に関しては1533年、1540年、1541年、1542年、1543年など様々な説がある。

 加賀藩史料では、慶長十年十一月九日(1605年)前田慶次利太、没す。時に年七十三、と記載されている。

 出典として、考拠摘録・桑華字苑・雑記・重輯雑談・三壷記・可観小説・無苦庵記・本藩暦譜・前田氏系譜 が列挙されている。なお、生年時の記述はなく、前田利家生誕以降の記述で加賀藩史料は構成されている。

 生涯

 養父の前田利久は、前田利家の長兄で、尾張国荒子城主(愛知県名古屋市中川区)であった。

 利益の実父は織田信長の重臣滝川一益の一族であるが、実父とされる人物は諸説有り確定する事は出来ない。

 一説に滝川一益の従兄弟、あるいは甥である滝川益氏、滝川益重、一益の兄である高安範勝、また利益が一益の弟との説も存在する。

 子のなかった利久が妻の実家である滝川氏から弟の安勝の娘の婿として利益を引き取り養子にしたとも、実母が利久に再嫁したともいう 永禄10年(1567年)に信長より、「利久に子が無く、病弱のため「武者道御無沙汰」の状態にあったから」(村井重頼覚書)との名目によって利久は隠居させられ、利久の実弟である前田利家が尾張荒子2千貫の地(約4千石)を継いだ。

 このため利益は養父に従って荒子城から退去したとされる。ただ、利久はその後も利家とともに織田家に仕えたとする史料も複数存在し、熱田神宮には天正9年(1581年)6月に荒子の住人前田慶二郎が奉納したと伝わる「末□」と銘のある太刀が残る。

 また、『乙酉集録』内の「尾州荒子御屋敷構之図」には荒子城の東南に東西20間、南北18間の「慶次殿屋敷」が記されておいる。

 天正9年(1581年)頃、信長の元で累進し能登国一国を領する大名となった叔父の利家を頼り仕える事になる。 利家から利久・利益親子には7千石が与えられた(その内利久2千石、利益5千石)。

 天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が起きる。真田家の史料「加沢記」では、この時に利益は滝川勢の先手となっている。

 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは佐々成政に攻められた末森城の救援に向かう。 その際に、利家より佐々方から寝返った阿尾城の城代に任じられ、同城奪還に向かった神保氏張らの軍勢と交戦した。

 天正15年(1587年)8月14日に、義父利久が没したことにより利益の嫡男前田正虎が利家に仕え、利久の封地そのまま2千石を給された。

 天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると叔父の利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので利益もこれに従い、次いで利家が陸奥地方の検田使を仰付かった事により利益もまたこれに随行した。

 しかし天正18年(1590年)以降、利家と仲違いしたため、又は利久の死を契機に前田家との縁がなくなった事によって前田家を出奔する。なお正虎をはじめとする利益の妻子は出奔には随行しなかった。 出奔後は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴・昌叱父子や九条稙通・古田織部ら多数の文人と交流したという。

 ただ、歌人「似生」は天正10年(1582年)にはすでに京都での連歌会に出席した記録が『連歌総目録』にあり、利益のことであれば出奔以前から京都で文化活動を行っていたようである。

 天正16年(1588年)には上杉家家臣木戸元斎宅で開かれた連歌会に出席しているほか、連歌会でたびたび顔を合わせている細川幽斎の連歌集『玄旨公御連哥』には年未詳ながら「五月六日、前田慶次興行於和泉式部(誠心寺)」とあり、利益主催の連歌会に幽斎が出席したことが記録されている。

 後に上杉景勝とその執政直江兼続の知遇を得て、景勝が越後から会津120万石に移封された慶長3年(1598年)から関ヶ原の戦いが起こった慶長5年1600年までの間に上杉家に仕官し、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1000石を受けた。

 なお、慶長9年8月の直江兼続書状には「北国(北陸)へ迎えの使者を送り、春日元忠のもとへ間もなく到着することは喜ばしい。屋敷を建てるのはよろしいようにするといい。ただし、無理な造作はいらない」とあり、これが利益召し抱えに関する書状であるとの見方もある(相川司『直江兼続』、渡部恵吉ら共著『直江兼続伝』)。

 関ヶ原の役に際しては、長谷堂城の戦いに出陣し、功を立てたとされる。 西軍敗退により上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、これに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森(現、米沢市万世町堂森で慶次清水と呼ばれる)に隠棲した。

 隠棲後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わる(ちなみに直江兼続が所有していた「史記」は現在国宝に指定されているが、こちらに注釈を入れていたかについては不明である)。

 米沢側の資料では、慶長17年(1612年)6月4日に堂森で没したとされる。利益の亡骸は北寺町の一花院に葬られたとするが、一花院は現在廃寺となっており、当時の痕跡は残っていない。また堂森の善光寺に供養塔が残るが、こちらの供養塔は昭和55年(1980年)に建てられたもの(当時発行した米沢の郷土史に対する問い合わせに答える形で建てられた)であり、近年では善光寺で供養祭が営まれている。

 一方で加賀藩史料、野崎知通の遺書では、関ヶ原の戦いの後も利益のいたずら癖、奇行は治まる事はなく、加賀藩藩主前田利長の命によって大和国刈布に隠棲し、その後病を患うと自らを「龍砕軒不便斎」と呼び、慶長10年(1605年)にその地で生涯を終え、同地の安楽寺に「竜砕軒不便斉一夢庵主」と刻んだ方四尺余高さ五尺の石碑がたてられたという(現在残ってはいない)。

 野崎の遺書を書写した「前田慶次殿伝」には刈布に「カリメ」とルビがふってあるが、今福匡は「カリフ」と読むのではないかと推測し、安楽寺のある宇陀市菟田野区古市場の北方、大沢地区や見田地区にある「カリウ」が故地ではないかとした。

 

 

 
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