後藤 基次(又兵衛)
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田孝高(如水)・豊臣秀頼の家臣。通称は又兵衞(またべえ)。後藤又兵衛として有名。
生涯
黒田家臣時期
播磨別所氏家臣・後藤基国(後藤氏当主)の次男として生まれた。幼少の頃、父を亡くしたことから、父の友人であった黒田孝高(如水)に引き取られた。
如水に家臣として仕え、数多くの軍功を挙げ、「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人に数えられた。
しかし、如水が荒木村重によって幽閉された際に、叔父基信がその子の基徳・基長兄弟(又兵衛のいとこ)とともに村重方に属したために、又兵衛は一族の謀反に連座したと見なされる破目となり、黒田家中からの退去を余儀なくされ、仙石秀久に仕えた。
後に罪を許されて、再び黒田氏の家臣として仕え、領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦い、文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵や慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなどに従軍。
朝鮮出兵の第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。
関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後大隈城16,000石の所領を与えられた。
しかし如水の子・黒田長政とは非常に折り合いが悪く、その確執から如水の死後、又兵衛は一家揃って黒田家を出奔した。
しかもこの時、長政は又兵衛に対して奉公構という措置を取ったため、又兵衛の智勇を惜しんで全国の大名(細川忠興・福島正則・前田利長・池田輝政・結城秀康など)から召し出しがかかったにも関わらず、いつも長政に仕官を邪魔され、家族とともに大坂で長い浪人生活を余儀なくされ乞食の身に零落するほど生活が逼迫したという(実際は大阪の陣の二年前まで池田輝政の庇護を受けていた)。
大坂の陣
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、徳川家康から法外な恩賞を条件に誘われたが、又兵衛は感激するもこれを拒絶して大坂城に入る。
「秀頼公には先陣を務めることで、家康公には合戦初日に死ぬことで御恩に報いよう」と語ったという。
冬の陣では鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。
元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣では、大和路方面・国分での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて出陣し、河内「道明寺の戦い」で徳川方の奥田忠次らを討ち取り、寡兵ながらも奮戦した。
しかし伊達政宗軍との乱戦の中、真田信繁軍が霧の発生により行軍に手間取っている間に、片倉重長(片倉景綱(小十郎)の嫡男)率いる鉄砲隊に銃撃された。腰を撃たれ歩行不能となった為、又兵衛は部下に介錯を命じて自刃したという。
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