吉川 元春/毛利 元春
吉川 元春 / 毛利 元春(きっかわ もとはる / もうり もとはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
毛利元就の次男で、毛利両川の一人。吉川国経の外孫。本姓は大江氏、のち藤原氏。 母は藤姓吉川氏である吉川国経の娘であり、その関係から天文19年(1550年)に吉川家を乗っ取る形で吉川興経を隠居させ、その養子として父の政略によって送り込まれることとなる。
吉川氏は藤原南家の流れを汲み、鎌倉幕府御家人として駿河国に住すも数々の戦功を立て、安芸国に所領を得た。室町時代には土佐の分郡守護をつとめたこともある名家である。
毛利両川の一人として、弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将。主に山陰地方の司令官として貢献した。
生涯で76度の合戦に臨み、 64度の勝利を収め、一度として敗れたことのない武将である、と伝えられている。
生涯
幼少時
享禄3年(1530年)、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれる。
天文9年(1540年)、尼子晴久が侵攻して来たことにより行なわれた吉田郡山城の戦いで、元服していないにも関わらずに父の反対を押し切って、見事に初陣を飾った。
天文12年(1543年)8月、兄・毛利隆元より「元」の字を受けて元春と名乗った(異説あり)。
天文16年(1547年)、熊谷信直の娘新庄局と結婚する。
吉川家相続
天文16年(1547年)7月、吉川興経の養子となる。これは興経と仲の悪かった叔父・吉川経世をはじめとする吉川家臣団の勧めもあって、興経がやむなく承服したものであるとされている。
天文19年(1550年)、元就は興経を強制的に隠居させると、元春に家督を継がせて吉川氏当主とした。そして熊谷信直らに命じて興経とその実子である千法師を殺害して、毛利家より格上の吉川家を事実上乗っ取ってしまったのである。
以後、安芸国大朝の小倉山城に入った元春は、より要害の地である日野山城を築き、拠点を移動している。そして弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当した。
大内・尼子との戦い
弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、義兄弟の仲であった陶晴賢率いる大内軍を撃滅した。
弘治2年(1556年)からは石見に遠征し、尼子晴久と何度か戦うも晴久にこれを退けられる(忍原崩れ、降露坂の戦い)。
弘治3年(1557年)に父が隠居すると、隆景と共に両川として毛利家を実質的に支える中核となった。
永禄8年(1565年)、第二次月山富田城の戦いでは主力として参戦して大いに武功を挙げ、永禄9年(1566年)に尼子氏を降伏せしめている。
しかし永禄12年(1569年)、尼子氏再興を願う尼子家旧臣の山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる(布部山の戦い)。
さらに同年、毛利家と敵対する大友宗麟のもとに寄食していた大内氏の一族・大内輝弘が周防国に侵攻してくる。これに対して軍権を与えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を一気に攻めて自害に追い込み(大内輝弘の乱)、元亀2 年(1571年)には謀略を用いて尼子勝久の籠もる末石城を攻撃し、山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである。
しかしその後、幸盛は謀略を用いて脱走している。
織田信長との戦い
元亀2年(1571年)、父・元就が死去すると、その後を継いだ甥・毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。 しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。
天正5 年(1577 年)からは織田信長の命を受けた織田氏の重臣・羽柴秀吉率いる中国遠征軍が侵攻してくるようになる。
元春はこれを迎撃し、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の息の根を止めた(上月城の戦い)。
その後も元春は織田軍と各地で戦い続けたが、南条元続が織田家に与し、豊後からは大友宗麟が織田信長と呼応して毛利領に侵攻し、天正9年(1581年)には因幡鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、毛利家は次第に敗勢が濃くなってゆく。
天正10年(1582年)、清水宗治らが立て籠もる高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。
そのような中、6月2日に織田信長が明智光秀の謀反で横死を遂げた(本能寺の変)。
羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠して、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊を通じて毛利家と和睦、備中から撤退を開始する。撤退後に本能寺の変を知った毛利軍は「秀吉に騙された」と激怒し、元春は羽柴軍を追撃して殲滅するべきだと主張したが、弟の隆景が反対したため、容れられなかったと言われている。
この一件により吉川家は秀吉に対する強い不信を抱くようになり、ひいては毛利家の中で親豊臣姿勢を取る恵瓊などと対立。この対立は子の広家にも遺伝のように受け継がれ、後の関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍と内応する遠因になったとも言われる。
最期
天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け隠居館の建設を開始した。
この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。 その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(1585年)、弟の小早川隆景は積極的に秀吉の四国征伐に参加したが、吉川軍は元春の息子である吉川元長が総大将として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。
天正14年(1586年)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、また弟の隆景、甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら九州征伐に参加した。
しかしこの頃、元春は化膿性炎症(癌とも言われている)に身体を蝕まれていた。そのため、出征先の豊前小倉城二の丸で死去した。享年57。
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