古田 重然(古田 織部)
古田 重然(ふるた しげなり / しげてる)は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期にかけての武将、大名。山城国西ヶ丘藩主。一般的には茶人・古田 織部(ふるた おりべ)として有名。通称は左介。初名は景安。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位を叙任したことに由来している。
千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。
武将・重然
天文13年(1544年)、美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟で古田重定(勘阿弥、還俗し主膳重正と改名したという)の子として生まれ、後に伯父の養子となったという。
『古田家系図』に重定は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される。
しかし、松屋久重編の「茶道四祖伝書」では佐久間不干斎からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが天正11年(1583年)の重然40歳の時とかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする研究者もおり、事実ははっきりしない。
古田家は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番をつとめた。
翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。
永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚。
天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。
天正6年(1578年)7月、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が反乱(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄・中川清秀を織田方に引き戻すのに成功する。
その後も羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀の丹波攻め(黒井城の戦いなど)、武田征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫と少ないながらも武将として活動している。
信長死後は秀吉に仕えて、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話が残る。
天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城の滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、中川清秀が戦死したため重然は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州根来・雑賀討伐、四国攻めにも秀政と共に出陣している。
同年7月、秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部正(織部助)に任ぜられ、山城国西岡に所領3万5,000石を与えられた。この時、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・せんを中川秀政の養女とした上で配偶し中川家の家臣とする。この重続の子孫は、重然の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続した。
同年9月、秀政の後見を免ぜられる。その後、九州の役、小田原の役に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられる。
茶人・織部とその友誼
天正10年(1582年)から千利休の書簡に織部の名前(左介)が見える。この間に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲のひとりとされる。
天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉をはばかって現れない中、重然と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行った。
利休死後は、その地位を継承するかのように天下の茶人となった。
慶長3年(1598年)には嫡子・重広に家督を譲り隠居した。
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
この時期の重然は、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々なつながりを持ち、名実ともにまさしく天下の茶人として全国の大名に多大な影響を与える存在であった。
最期
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣のおりに重然の茶頭である木村宗喜が豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられた。
重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大阪城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日(7月6日)に切腹を命じられた。
重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年72。同時に嫡子・重広も切腹。木村宗喜も処刑されている。
なお次男・重尚(前田利常家臣)、三男・重広(池田光政家臣)、四男・重行(豊臣秀頼家臣)、五男・重久がいたといわれ、菩提寺の興聖寺には重然の墓の左右に墓石が並んでいる。
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