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 群雄割拠  戦国武将伝
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 福山 茲政

 福山 茲正(ふくやま これまさ、生年不詳 - 天正4年(1576年)7月)は戦国時代の武士で尼子氏の重臣であった人物。官職は左衛門尉。通称、次郎左衛門。

 経歴

 尼子倫久の重臣で八橋城主をつとめたこともある武将であった。

 『佐々木文書』の「永禄九年十一月二十八日雲州富田城迄、相届衆中」の中に一族と共にその名が見えることから、永禄9年(1566年)の毛利氏による富田城開城の際、城にこもっていたと考えられている。

羽衣石に居住した茲正

 その後、経緯は不明なるも伯耆国河村郡羽衣石城主の南条元続と親しくなり、羽衣石城下に居住するようになった。

 当時、織田信長は羽柴秀吉に中国地方侵出を命じており、秀吉によって伯耆、因幡、但馬などに勢力を持つ諸氏の引き入れ工作が進められていた。

 茲正はこうした秀吉の引き入れ工作の仲介役となり、元続に毛利からの離反を勧めた。茲正のこのような行動には山中幸盛の働きかけがあったと言われている。秀吉に通じていた山中幸盛は同じ尼子の遺臣であり、茲正と以前から面識があったものと推察される。

天正4年の事件

 茲正の工作により、南条元続は離反の意思を固めた。既に上方との密約があったとの指摘もされている。元続の離反の意思を察した南条家重臣・山田重直は以前から信任の厚かった吉川元春より茲正の殺害を命じられた。そして命を受けた重直は天正4年7月、茲正を含む福山氏一族を羽衣石の山田氏の屋敷に誘い込み、そこで討ち果たしたとされている。

 『陰徳太平記』にはこの事件は天正7年4月に起こったと記されているが、天正4年7月11日付の「吉川元春書状」に殺害に関する記述が見えることから後者の記述に従うのが妥当と考えられる。

 

 
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