保科 正俊
保科 正俊(ほしな まさとし、1511年(永正8年) - 1593年9月1日(文禄2年8月6日))は、戦国時代の武将。保科正直、内藤昌豊の養子に入った(異説あり)内藤昌月の父。 父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。
最初は武田信玄の信濃侵攻に抵抗したが、1552年頃に降伏してその家臣となった。武田氏の信濃先方衆(120騎持)の一人として活躍し、特に槍に優れた使い手であったため、戦国の三弾正に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された。
1582年、武田氏が織田氏によって滅亡した後は北条氏に臣従した。しかし本能寺の変で瓦解した旧織田領を巡って北条氏と徳川氏が対立すると徳川家康に仕える選択をした。
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