堀尾 忠氏
堀尾 忠氏(ほりお ただうじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。初代藩主・堀尾吉晴の次男で、出雲松江藩の第2代藩主。父と同じく帯刀先生を称している。
生涯
天正6年(1578年)、後に豊臣家三中老となる堀尾吉晴の次男として生まれる(異説として長男とも言われる)。長兄・金助(金助は吉晴の弟の子で養子との説もある)が天正18年(1590年)に小田原攻めの陣中で亡くなったことから、堀尾吉晴の世子となる。 元服に際しては江戸中納言・徳川秀忠より1字を拝領して忠氏と名乗った。類似の例に前田利家から片諱を受けた南部利直、増田長盛より一字を受けた長宗我部盛親のケースがあり、大老・奉行の下に大名が統制されていた傍証となっている。
慶長4年(1599年)、父の隠居に伴い、遠江浜松城主12万石を相続する。ただし、中老職を継承したかどうかは不明である。だが、父は隠居料を徳川家康から与えられており、またこの時点ですでに三中老制は有名無実化されていたことから、恐らくは相続していなかったものと思われる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康方の東軍に与して山内一豊と城提供の策を謀議し、また戦前に加賀井重望による殺傷事件に遭遇して負傷した父に代わって東軍側として関ヶ原前哨戦に武功を立てる。本戦にも参加したが、こちらでは長宗我部盛親の出撃を牽制したのみで武功を挙げていない。
戦後、前哨戦における武功を徳川家康から賞されて、出雲24万石に加増転封された。 ちなみに隠居の父・吉晴は浜松12万石とは別に5万石の隠居料を与えられていたが、忠氏の加増転封に伴い収公されている。
その後は父と共に協力して藩政を行なったが、慶長9年(1604年)8月4日、父に先立って病死した。享年27。後を子の忠晴が継いだ。
病弱でもなく急死する理由は見当たらず、本当に病死かどうかは謎である。一説にはニホンマムシにかまれたためともいう。藩主としては松江城の城地を選定するという治績を残している。
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