堀内 氏善
堀内 氏善(ほりのうち うじよし)は、戦国時代の武将。熊野水軍の将。
生涯
堀内氏は、紀伊国・新宮を中心に2万7000石(実質5 - 6万石)の地を支配した豪族。熊野水軍(海賊)を擁する軍事力と熊野新宮や熊野詣などからくる宗教的な権威と経済力を有していた。
天文18年(1549年)、堀内氏虎の子として生まれる。幼名は楠若と伝わる。 熊野を領し堀内氏と対立していた熊野有馬氏は、内紛により衰退し、当主・有馬孫三郎が子なく没していたため、楠若が養子に入った。
天正2年(1574年)、父・氏虎の死後、兄・氏高の後を継ぎ、新宮城主となる(兄が早世したため、父の死の直後に家督を相続した模様)。このため、熊野有馬氏は断絶した。
天正4年(1576年)、北畠信雄と伊勢国・三鬼城、紀伊長島城を巡って戦っているが(『勢州軍記』)、天正9年(1581年)には、織田信長から知行として熊野社領分を与えられ、信長に仕えるようになったという。
天正10年(1582年)の山崎の戦いでは、羽柴秀吉に属して7000石を加増されたという(『朝野雑載』)。この他にも紀伊国の北部に侵攻し、中村山城などの城を攻め落とした。
秀吉の紀州征伐に対して当初、抵抗の姿勢を示したが、天正13年(1585年)には秀吉に降伏して本領を安堵された。紀州平定後の検地に反対する地侍や農民の一揆には、秀吉方として一揆の討伐に参加している。
その後、四国攻めや小田原の役、朝鮮出兵の晋州攻めや蘇州古城守備に574人の熊野水軍を率いて従軍し活躍、天正19年(1591年)には、秀吉から「熊野惣地」に任命された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の勧めで牟婁郡8万石と引き換えに義父・九鬼嘉隆と共に西軍に属し約350を率いて伊勢へ侵攻するが、味方主力の敗報を聞き逐電し、同年10月には居城・新宮城も東軍に属す和歌山城主・桑山一晴に攻め落とされ所領を失ったため、天正16年(1588年)の北山攻めの際に築いた京城に落ち延びたが、紀伊国・加田村に蟄居した。
その後、西軍への加担は消極的であったとの理由で許され、熊本藩主・加藤清正に仕え2000石を知行し、宇土城の城代(慶長17年に城が破却され任を解かれる)となったが、慶長20年(1615年)に熊本城で病没したという。
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