本多 正純
本多 正純(ほんだ まさずみ)は、江戸時代前期の老中。徳川家康の寵臣本多正信の長男。下野小山藩主、下野宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。正信系本多家宗家2代。
宇都宮城主時代に城改修を咎められ徳川秀忠により減封を命ぜられたが固辞したため1000石の知行のみで出羽国由利郡にて佐竹義宣(後に佐竹義隆)預かりの身とされた。
生涯
関ヶ原まで
永禄8年(1565年)、本多正信の嫡男として生まれる。
当時、正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河を追放されて大和の松永久秀を頼っていたとされるが、正純は大久保忠世の元で母親と共に保護されていたようである。
父が徳川家康のもとに復帰すると、共に復帰して家康の家臣として仕えた。
父と同じく智謀家であったことから家康の信任を得て重用されるようになり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。戦後、家康の命令で石田三成の身柄を預かっている。
家康存命中
慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。
慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。
慶長13年(1608年)には下野小山藩3万3000石の大名として取り立てられた。
慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。
大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。
慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。
慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。
秀忠時代
元和2年(1616年)、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。なお、家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3000石の大名となる。
元和5年(1619年)10月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野小山藩5万3000石から宇都宮藩15万5000石に加増を受けた。これにより、周囲からさらなる怨みを買うようになる。ただし、正純自身は、さしたる武功も立てていない自分にとっては過分な知行であり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、加増を固辞していた。
幕僚の世代交代が進んでいたが、正純は代わらず、幕府で枢要な地位にあった。しかし、後ろ盾である家康や父正信が没し、秀忠が主導権を握った事と、秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで影響力、政治力が漸う薄弱になっていった。
失脚
元和8年(1622年)8月、出羽山形の最上氏が改易された際、正純は上使として山形城の受取りに派遣された。
9月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収した。しかしそのとき数日遅れで遣わされた伊丹康勝と高木正次が正純糾問の使者として後を追っていた。伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を突きつけた。
正純は最初の11か条については明快に答えたが、そこで追加して質問された3か条については適切な弁明ができなかった。その3か条とは城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる。先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽の内由利郡に5万5000石を与える、という代命を受けた。
この時、使者として赴いた高木正次、伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その5万5000石を固辞した。
これが秀忠の逆鱗に触れることとなった。高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒し、本多家は改易され、身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽国横手に流罪となった。後に1000石の捨て扶持を与えられている。
正純の失脚により、家康時代、その側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。
この顛末は、家康・秀忠の二元政治時代、本多親子の後塵を拝して正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、あるいは、秀忠の姉加納御前(亀姫)が秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。
加納殿は正純が宇都宮に栄転したのに伴って格下の下総古河に転封を命じられた奥平忠昌の祖母であり、しかも彼女の娘は、正信・正純の陰謀で改易された大久保忠隣の子大久保忠常の正室であった。正純に憎悪を抱いていたのは想像に難くない。
さらに、改易された最上家の領土収公に赴く途中で改易を命じられる、という顛末は、キリシタン鎮圧に赴く途中で改易を申し渡された大久保忠隣の時と類似しており、忠隣に関連する人物らによる意趣返し、報復の線も捨てがたい。忠隣の親戚に当たる大久保忠教(彦左衛門)は、誣告を用いて忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだという。 また、秀忠自身も父家康の代から自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていた。
秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取ったが、その説明を聞かされた当時の小倉藩藩主細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく」という理由であり、具体的には秀忠が福島正則を改易するのに反対したことと宇都宮を拝領してから数年たって「似合い申さず」と言って返上しようとしたことを挙げていた、と父の細川忠興に書き送っている。
以下の歌は、失脚した正純が幽閉された横手・上野台で詠んだものと伝えられる。
日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく
寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去した。享年73。
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