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 群雄割拠  戦国武将伝
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 一柳 直末

 一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ、天文15年(1546年)- 天正18年3月29日(1590年5月3日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏の家臣。一柳直高の子。末安とも。通称は市助(市介)。

 壮年期に従五位下伊豆守の官位を得ている。 美濃国厚見郡西野(現在の岐阜県岐阜市西野町)の土豪の出自。

 羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃から家臣だった古参の武将で、武勇に秀でていたことから「熊」の異名をとった。秀吉に仕えて各地を転戦して武功を挙げ、秀吉の黄母衣衆となった。

 天正13年(1585年)には田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに豊臣秀次の宿老に任命され、美濃国に3万石を領した。

 さらに天正17年(1589年)には軽海西城に転封となり、6万石に加増された。

 天正18年(1590年)、小田原の役に参加したが、その緒戦である伊豆国山中城攻めで間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死した。陣中にあった秀吉は黒田如水から直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、三日間ほど口をきかなかったという(『一豊公記』)。

 家督は弟の一柳直盛が継ぎ、尾張国葉栗郡西部に黒田城を中心として3万5,000石を与えられた。また、母らくにも直末の死を悼んだ豊臣秀次から800石の知行地が与えられた。この際の所領宛がい状は、女性相手というためか漢字がほとんど使われておらず、主にひらがなで構成されている(『一柳文書』)。

 

 
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