平岩 親吉
平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の重臣。上野厩橋藩(前橋藩)主。のちに尾張犬山藩主。
徳川家康の覇業を支えた功臣の一人であり、徳川十六神将の一人に数えられる。 『三河後風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。
生涯
天文11年(1542年)、平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町)で生まれる。徳川家康と同年であったことから、今川義元の人質時代から家康に付き従った。
天文16年(1547年)、小姓として駿府に送られた。
永禄元年(1558年)に初陣する。家康の信任は厚く、三河統一戦や遠江平定戦などで戦功があり、家康の嫡男・松平信康が元服すると、その傅役として信康を補佐した。
しかし天正7年(1579年)、織田信長の要求により信康が自害すると、その責任を感じて蟄居謹慎する。後に家康に許されて、再び直臣として復帰した。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死すると、家康は天正11年(1583年)までに甲斐国を平定し、親吉は家康の命令で甲府城の築城を開始し、甲斐の郡代として武田遺臣を慰撫し、国内経営に尽力した。
天正18年(1590年)、小田原の役に戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、再び甲斐に戻り、甲府6万3,000石を与えられた。
慶長8年(1603年)、先年死んだ養子・松平仙千代の弟である徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、幼少の義直を後見して執政する。
慶長12年(1607年)、義直が尾張名古屋藩主に転ずると、義直付の家老として尾張に移り、藩政を執行した。また犬山藩主として12万3,000石を領した。
慶長16年(1611年)12月30日、名古屋城二の丸御殿で死去。享年70。
親吉には嗣子が無かったため、平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は、8男の松平仙千代を養嗣子として与えていたが、仙千代は慶長5年(1600年)に早世してしまった。そのため自身の死後、犬山藩の所領は義直に譲るように遺言していたと言われる。
しかし家康は、親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しみ、その昔、親吉との間に生まれたという噂のあった子を見つけ出し、その子に平岩氏の所領を継がせようとした。しかしその子の母が、この子は親吉の子供ではないと固辞したため、結局、平岩氏は慶長16年(1611年)の親吉の死をもって断絶した。
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