波多 親
波多 親(はた ちかし、生年不詳-文禄3年(1594年))は戦国時代の武将。肥前国岸岳城城主。幼名・藤童(藤堂)丸。元服して、はじめ「鎮(しげし)」。別名に信時。三河守。
波多氏の家系図には、かなり混乱があるので諸説あるが、一番有力な説としては、有馬義貞の三男。有馬氏から波多氏に養子に入って家督を継ぐ。 この家督相続に当たって、先代・波多盛の弟を担ごうとした一派との対立から、御家騒動があり、反対派を粛清している。
1564年、この反対派の残党に祝賀の挨拶と称して居城へ入城された際に放火され、混乱に乗じて城を奪われ、一時は草野氏を頼って落ち延び、不遇の時代を送る。
1569年、龍造寺氏・有馬氏の後援を受けて岸岳城を奪回。反対派の残党は壱岐へ逃亡、松浦氏の支配下に入り防戦する。
1571年、対馬・宗氏の援軍を受けて壱岐へ攻め込むも、敵の偽りの内応に騙され敗北。 その後、残党勢力との和睦が成立すると、龍造寺氏の攻勢がはじまり、有馬氏と結び、龍造寺氏と和睦と離反を繰り返す。
1583年(1577年とも?)、正妻はまだ存命であったが、龍造寺隆信の圧力で、隆信の養女を妻として迎えて従属する事となる。
(元の正妻は出家して尼となった) 1584年の沖田畷の戦いでは身内に当たる有馬氏を攻めるのを躊躇い、どちらにも属さず出陣していない。隆信の死後は島津氏に通じ、原田氏・松浦氏などと抗争している。
1587年からの秀吉による九州征伐においては秀吉に謁見するも、島津氏の討伐には兵を派遣しておらず、秀吉の不興を買う。しかし、既に朝鮮への出兵を考えていた秀吉により拠点となる地である(肥前名護屋)の支配者である波多氏の利用価値を認めた事や、鍋島直茂の取り成しもあり、所領を安堵されている。しかし、これで波多氏は大名としてではなく、龍造寺氏の与力扱いとなる。
後、秀吉が朝鮮出兵に備えて名護屋に前線基地を築く事を提案するが、この際も、大軍を置く本営には不向きであると秀吉に進言して不興を買う。
また、後に文禄の役を控え、博多に秀吉が着陣した際も、諸将が即座に出迎えたの対して、ここでも波多氏は遅参して、さらに秀吉の印象を悪くしてしまった。
文禄の役にも鍋島直茂の配下として兵を率いて渡海したが、ここでも直茂の配下としてではなく、独立した大名として鍋島の陣を離れ 独自に陣を構えた為、秀吉に軍令違反と捉えられてしまう。
後、帰国の途に着くが、名護屋への上陸を許されず、船上で今までの落ち度を攻められる書状を渡され、所領没収の上、徳川家預かりとする旨が伝えられた。
そして、常陸国筑波に配流となり、同地で1594年に死去した。法名「大翁了徹居士」。
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