Header image header image 2  
 群雄割拠  戦国武将伝
 一覧へ戻るは行一覧へ戻る
 

 羽柴 秀勝

 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代の武将。織田信長の四男で、羽柴秀吉の養子。幼名は於次、もしくは於次丸。

 概略

 永禄11年(1568年)、織田信長の四男として生まれる。母は不詳。しかし、のちに(秀勝存命中)秀吉と対立した佐々成政が、娘を秀勝の弟である織田信高に嫁がせていることから、信高の母と同じか下回る身分の女性が母親であったものと思われる。

 天正7年(1579年)、子の無かった羽柴秀吉の養子となった。これは秀吉が、織田家中における勢力拡大を図って信長に頼み込んだためと言われている。

 天正10年(1582年)3月、秀吉が備中を攻めると、それに随って備中児島城攻めで初陣を果たし、高松城攻めにも参加した。

 6月、父の織田信長が本能寺の変で死去してからは「信長の四男」としての名分を秀吉に政治的に利用され、山崎の戦いでは異母兄信孝と共に弔い合戦の旗印とされ、秀吉が主導して行った信長の葬儀では喪主を務めた。

 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加している。時期は不明ながら、内藤元種の娘(毛利輝元の養女)と婚約している。

 織田家領の再分配を決めた清洲会議の際には、明智光秀の旧領で京都に近い要地である丹波亀山城を与えられた。

 しかしその後、もともと病弱だったことが災いしてしばしば病床に就き、天正13年(1585年)12月10日、丹波亀山城で病死した。享年18。

 法名は瑞林院殿賢岩才公大禅定門と名付けられ、墓所は高野山と大徳寺総見院に存在する。木像は知恩寺瑞林院、肖像画が大徳寺本坊・知恩寺に残る。

 旧主織田氏出身の秀勝が継嗣に立てられていたことは、秀吉にとっては大義名分であり、秀吉は織田家の一族として諸将との抗争を有利に展開した。

 秀勝が存命していれば後継者となった可能性も十分にありえるが、ちょうど秀勝の死んだ1585年に秀吉は関白となっており、もはや織田の名分は不要だったと見ることもできる。全く同じ名前の羽柴秀勝=豊臣秀勝(元服してこう名乗ったのもこの時期である)が跡を継いでいることもあり、秀吉によって暗殺された可能性もある。

 

 
 一覧へ戻るは行一覧へ戻る