蜂須賀 正勝(小六)
蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。羽柴秀吉(豊臣秀吉)の重臣。通称は著名な小六(もしくは小六郎、のち彦右衛門に改名)。従四位下・修理大夫。
経歴
蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷(現愛知県あま市蜂須賀)を根拠とした国人領主であり、正勝は大永6年(1526年)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれる。
父の死後、母の故郷・丹羽郡宮後村(現愛知県江南市宮後町)に移住する。
若年期には川並衆を率いて木曽川の水運業を行うことで利益を得ていたと考えられている。
また、これらの地理的な知識や人脈を用いて美濃の斎藤道三、尾張岩倉の織田信賢、犬山の織田信清にも一時的に仕えたこともあるが、あくまで独立勢力として存在していた。
浪人時代の秀吉と矢矧川(矢作川)の橋(矢作橋)で会ったというエピソードが有名であるが、当時の矢矧川にはまだ架橋されていなかった為、創作である可能性が高い。
一説では、秀吉が織田信長に仕える以前に正勝に仕えていたともいわれている。織田信長の側室となった吉乃の実家・小折城主生駒氏とは縁戚関係にあり、秀吉が信長に仕えたのは正勝と縁のあった吉乃の推薦によると『織田家雑録』に記されている。
永禄9年(1566年)、秀吉の美濃墨俣一夜城の築城に川並衆の前野長康らと協力し(これもまた伝説である可能性が高い)、秀吉がその守備頭となった際には与力としてともに行動し、斎藤方の調略の案内役として活動していた。
その後は、越前国手筒山城・金ヶ崎城攻め、近江国横山城の攻略、長島一向一揆攻めに秀吉に従軍して功をあげ、天正元年(1573年)、浅井氏の滅亡後、秀吉が近江国長浜城主(当初は小谷城主)となると、長浜領内に所領を与えられた。
天正7年(1579年)、播磨国三木城攻め、天正9年(1581年)、因幡国鳥取城攻めにも従軍して活躍し、その功により播磨国龍野5万3千石を与えられた。
天正10年(1582年)、本能寺の変の際には、備中国高松城攻略の最中で、黒田孝高とともに高松城開城に尽力し、いわゆる「中国大返し」を成功に導いた。
天正12年(1584年)、徳川家康との小牧・長久手の戦いにも従軍する。
天正13年(1585年)、従四位下・修理大夫に叙任される。同年の四国攻めでは阿波国木津城を降し、四国取次として戦役前後の交渉や領土引き渡しなどの処理にあたった。
長宗我部氏への押さえとして秀吉から阿波一国を与えられるが、正勝は秀吉の側近として仕えることを望んでこれを辞退し、嫡男・家政に譲り渡された。自身は結局、阿波に入国することはなかったといわれる。
天正14年(1586年)、大坂城外の邸宅にて死去した。享年61。
墓所は、徳島県徳島市眉山町。また、徳島市下助任町の大雄山興源寺。さらに、出身地の愛知県あま市蜂須賀の池鈴山蓮華寺にも子・家政との合同墓碑がある。
法名は「福聚院殿良巌浄張大居士」。
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