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 群雄割拠  戦国武将伝
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 馬場 信春

 馬場 信春(ばば のぶはる)は、戦国時代の武将。武田四名臣の一人。

 生涯

出生と馬場氏について

 生年に関しては永正11年(1514年)とも永正12年(1515年)とも言われる。

 馬場家系図によると馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光のひ孫の源仲政(馬場仲政)を遠祖とする源姓の氏族。

 摂津源氏の一派である美濃源氏の土岐氏の祖となる源光信(土岐光信)の孫で、美濃国土岐郡に土着した土岐光衡の一族で、甲斐国教来石村に移り教来石氏を名乗る。

 信春もまた教来石(きょうらいし)景政と名乗り、後に馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名、さらに改名して信春となる。通称ははじめ民部少輔、のち美濃守。

信虎時代

 武田信虎の時代から武田氏に仕える。

 武田晴信(信玄)の初陣である海ノ口城攻めに参加し、敵将・平賀源心を討つという功績を挙げたといわれている。

 天文10年(1541年)の信玄の信虎追放計画に参加していたといわれている。

信玄時代

 信玄が武田氏の当主となり、その直後から諏訪・伊那(いずれも信濃国)攻めが始まると、これに参加して武功を挙げた。

 このため信玄から、天文15年(1546年)に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許された。

 このとき、同時に50騎持の侍大将となり、名も景政から信房と改めた。

 その後も信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げたため、永禄2年(1559年)に120騎持に加増され、譜代家老衆の一人として列せられた。

 永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任されたと言われている。

 永禄5年(1562年)には前年に隠退した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名する。

 永禄11年(1568年)の駿河攻めにも参加する。

 永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍と戦い、武功を挙げた。

 元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦にも参加し、信玄から一隊の指揮を任されて只来城を攻略した。

 三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げた。

最期

 元亀4年(1573年)4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれたという。

 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県と共に撤退を進言するが容れられず、代わりの策も勝頼の側近に退けられるといった有様であった。ただし、これは確たる資料に出てくる話ではなく、後世の作り話である可能性が高い。

 同月21日、織田・徳川連合軍との長篠の戦いでは武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。

 元々、数で劣る味方の攻勢が長続きする訳がなく、次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊。大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。

 『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。享年61。

 豊川(寒狭川)沿いの出沢(すざわ、新城市出沢)が戦死の地とされており、石碑もある。

 なお墓所は、出沢ではなく長篠城址に近い新城市長篠字西野々の住宅地にある。

 

 
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