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 群雄割拠  戦国武将伝
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 上杉 景虎

 上杉景虎(うえすぎ かげとら)は、戦国時代の武将。北条氏康の七男。母は遠山康光の妹。

初めは北条三郎(ほうじょう さぶろう)と名乗ったと推定される。のちに上杉謙信の養子になる。

 生涯

幼少期

 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたが、北条氏康・武田信玄・今川義元の三国同盟が成立すると武田家に人質として送られたといわれていた。しかし、近年では武田家に送られた説を否定し『関八州古戦録』の創作であるというのが通説である(『関八州古戦録』以前の系図や軍記、史料には、この話がみられない上に武田側の史料にも発見できないためである)。

 また正確な生年も不明である。

 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお、北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある。

三郎から景虎へ

 永禄12年(1569年)6月、越相同盟が締結され、北条氏政の次男国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。しかし後になって氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わりの人質を求められる。

 三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には上杉謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される 。

 永禄13年(1570年)4月11日、上野沼田で謙信と面会し、越後へ同行する。

 同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。

 元亀2年(1571年)、父・氏康が死去したので小田原へ帰参し、まもなく越後へと戻る。

 同年12月、兄氏政が武田家へと鞍替えして同盟(甲相同盟)を結んだため、謙信との同盟は破棄されるが、そのまま越後へ留まった。

 元亀3年(1576年)、謙信の能登国平定の後に、義弟(義兄ともいう)の上杉景勝とともに能登国の支配を任せられた。

家督争い

 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、景勝と家督を巡って対立。これが御館の乱である。

 上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、景虎の実家である北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取。

 5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条家はひとまず武田へ景虎への援軍を打診し、武田軍が越後へと入った。 しかし、景勝側は春日山城内の黄金を大いに使い、武田勝頼に対し多量の黄金の譲渡と上野沼田の割譲・武田氏との同盟を提案。武田氏は同時に景虎方とも交渉を進めたが景虎方は武田へ十分な条件を提示することが出来ず、勝頼は景勝方を支持。初めは優勢であった景虎側は武田軍の支援を失い次第に劣勢へと追い詰められていった。

 8月には勝頼の調停により、景虎は一時的に景勝と和睦するが、すぐに破綻した。

 翌・天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男道満丸も憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に憲政ともども何者かに殺害され(陰謀説、裏切り説等これには様々な説がある)(他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)、無援となった景虎は兄(北条氏政)を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って自害を余儀なくされた。享年26 とされる。

 法名は「徳源院要山浄公」。 墓所について、『北越軍記』によると常安寺とあるが実際には常安寺には景虎の墓はないため不明である。また新潟県妙高市の勝福寺には景虎の供養塔がある。

 
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