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 群雄割拠  戦国武将伝
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 大友 宗麟/大友 義鎮

 大友 宗麟 / 大友 義鎮(おおとも そうりん / -よししげ)は戦国時代の武将である。豊後の戦国大名、キリシタン大名。大友氏第21代当主。宗麟の法号で知られている。

 略歴

 大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏とともに幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。

 大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定したのが、大友宗麟である。

 父は大友家第20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘といわれているが周防大内氏の家督を継いだ大内義長とは異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母ではないかとする説がある。

 一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、大友塩市丸、大友親貞など。子に大友義統(吉統)、大友親家、大友親盛など。

 海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げた。 当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受け「キリシタン大名」としても有名。

 一時は九州6ヶ国を平定し、九州最強の大名であった。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後1国を維持するのがやっとというほどまでに衰退した。

 生涯

家督相続

 享禄3年1月3日、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後府内に生まれる。

 守役は重臣入田親誠が務めた。 父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、守役の入田親誠と共に義鎮の廃嫡を企んだ。

 天文19年(1550年)2 月に義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派の粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して2月12日に死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。

 そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、第21代当主となった。同時に入田親誠ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。

勢力拡大

 天文20年(1551年)に周防の大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英(大内義長)を大内家の新当主として送り込んだ。

 これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を討つと共に北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門方面にも影響力を確保した。

 特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。

 また復権を目論む叔父の菊池義武の反乱をしりぞけ、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させて肥後の勢力も確保した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したためこれが大友家臣団の宗教対立に結びついて天文22年(1553年)に一萬田鑑相、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。

 さらに弘治3年(1557年)、義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、これと内通した筑前の秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。

 永禄2 年(1559 年)には室町幕府第13代将軍・足利義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前国の守護に任ぜられ同年11月には九州探題に補任された。

 永禄3年(1560年)には、左衛門督に任官する。このように義鎮は名実共に九州に置ける最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出したのである。

 永禄5年(1562年)に出家し休庵宗麟と号す。

 その後も足利将軍家には多大な援助を続け、永禄6年(1563年)には足利義輝の相伴衆に任ぜられ後に毛利氏との和睦交渉などにも将軍家の調停を依頼するなど関係は密であった。

敗戦

 毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになる。

 永禄10年(1567年)、豊前や筑前方面で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。

 また、この毛利氏との戦闘の中で宗麟は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないようにとの手紙を出している。

 永禄12年(1569年)、肥前で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて肥前に侵攻するが元就が筑前に侵攻してきたため、慌てて撤退する。そして重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を安芸に撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。

 元亀元年(1570年)、再度肥前に侵攻するが今山の戦いで龍造寺隆信に弟の親貞を討たれるという大敗を喫し、隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなった。その後も筑後や肥前の反龍造寺勢力を扇動するも、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。

 天正4年(1576年)、家督を長男の大友義統に譲って丹生島城へ隠居する。このときから義統と二元政治を開始した。

 天正5年(1577年)、薩摩の島津義久が日向侵攻を開始すると、宗麟も大軍を率いて出陣した。

 しかし天正6年(1578年)に耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。

 さらに天正7年(1579年)頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、また、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。

 なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。

衰退から最期へ

 耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎさらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。

 天正12年(1584年)に沖田畷の戦いで隆信が島津軍に敗死すると立花道雪に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回したものの天正13年(1585年)に道雪が病死してしまい、これを好機と見た島津義久の北上が始まることとなる。

 このため天正14年(1586年)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請する。しかし島津義久はその後も大友領へ侵攻し、天正14年(1586年)12月には島津家久軍が戸次川の戦いで大友方を破って本拠地である豊後国府内を占領してしまった。

 このとき、臼杵城(丹生島城)に籠城していた宗麟は大砲・国崩し(フランキ砲のこと。その大きな威力からこのように名づけられた)を使って臼杵城を死守し戦国大名としての意地を見せた。

 天正15年(1587年)、秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し各地で島津軍を破っていく。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死した。58歳。死因はチフスが有力とされる。

 九州征伐後、秀吉の命令で大友義統には豊後一国を安堵された。秀吉は宗麟に日向の地を与えようとしていたが統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去したとされている。

 墓は大分県津久見市内と京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にある。さらに津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。肖像画は瑞峯院に所蔵されている。

 宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に嫡男・義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。その後、墓は荒廃したが寛政年間(1789~1801年)に宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊が自費で改葬した。

 津久見市内の現在の墓所は昭和52 年(1977 年)に当時の大分市長・上田保によって新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。

 
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