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 群雄割拠  戦国武将伝
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 太田 道灌

 太田 道灌(おおた どうかん)は室町時代の武将。武蔵国守護代。本姓は源氏。

 家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。諱は資長。

 扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。

 生涯

幼少期

 鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務め才幹をうたわれた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代。

 『永享記』などによると鶴千代は鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問を修め、また足利学校(栃木県足利市)でも学び、幼少ながらその英才ぶりが世に知られた。

 『太田家記』によれば、父資清が俊英にすぎる鶴千代を心配して「知恵が過ぎれば大偽に走り、知恵が足らねば災いを招く。例えれば障子は直立してこそ役に立ち、曲がっておれば役に立たない」と訓戒すると、鶴千代は屏風を持ち出し「屏風は直立しては倒れてしまい、曲っていてこそ役に立ちます」と言い返した。

 『寛政重修諸家譜』によれば、ある日父資清は筆をとって「驕者不久」(驕れるものは久しからず)と書いた。すると鶴千代はこれに二字書き加え「不驕者又不久」(驕らざるものも久しからず)とした。 百年以上後の江戸時代に書かれたものなので、そのまま事実とは考えられないが、道灌の才気と傲慢な一面の性格を示す逸話として知られる。

 文安3年(1446年)15歳にして元服し、資長を名乗った(初名は持資だったという説もある)。

 享徳2 年(1453 年)1月、従五位上に昇叙し(従五位下叙位の時期は不明。)左衛門少尉は如元(左衛門大夫を称する。)

家督相続

 関東管領上杉氏は山内上杉家、犬懸上杉家、宅間上杉家、扇谷上杉家に分かれ、このうち山内家と犬懸家が力を持っていたが上杉禅秀の乱で犬懸家が没落した後は山内家が関東管領職を独占し、太田氏の主君扇谷家は山内家を支える分家的な存在であった。

 父・資清が主君上杉持朝を補佐していた時代に、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立から、永享の乱へと発展し、持氏は幕府軍に滅ぼされ、鎌倉公方は中絶する。

 後に持氏の子・成氏が鎌倉公方、同じく憲実の子・憲忠が関東管領に任じられると、憲忠の義父でもある持朝の要望で資清が憲忠の家宰長尾景仲とともにこれを補佐した。景仲は資清の義父で道灌にとっては母方の祖父にあたる。

 康正元年(1455 年)頃には品川湊近くに太田家は居館を構えたという。

 同年12月、正五位下に昇叙し、備中守に転任。 ところが、享徳3年(1454年)に憲忠が成氏に暗殺され、上杉一門は報復に立ち上がって武蔵国高安寺(東京都府中市)にいた成氏を攻めたものの、康正元年の分倍河原の戦いで返り討ちに遭い、当時の扇谷当主顕房(持朝の子)も討たれてしまう。

 幕府は成氏討伐を決め、駿河守護今川範忠率いる幕府軍が鎌倉に攻め寄せる。敗れた成氏は下総国古河城に拠り、古河公方を称して抵抗。成氏は上杉氏に反感を抱く関東諸将の支持を集めたため、関東地方はほぼ利根川を境界線として、古河公方陣営の東側と関東管領陣営の西側に分断されてしまった。

 これを享徳の乱と言う。

 康正2年(1456年)道真(資清の法名、文安4年(1447年)以前に出家)は資長に家督を譲った。以後、資長は政真(顕房の子)・定正(顕房の弟)の2代にわたって補佐して、結果的に28年にも及ぶ享徳の乱を戦う事になった。

 対成氏戦のために早急に防御拠点を築かねばならず、顕房死後に当主に復帰した持朝の命で、康正2年から長禄元年(1457 年)にかけて道真・資長父子は武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)、埼玉郡に岩槻城(埼玉県さいたま市)を築いた。

 (岩槻城は太田道灌によって築城されたとされていたが、近年道灌と対立していた成氏方の忍城主成田顕泰の父成田正等によって築城されたとする資料が見つかるに及んで、最近では後者の学説の方が有力となっている)

江戸築城

 更に古河公方方の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である利根川下流域に城を築く必要があった。資長は、秩父江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した。

 『永享記』には資長が霊夢の告げによって江戸の地に城を築いたとある。

 また、『関八州古戦録』には品川沖を航行していた資長の舟に九城(このしろ)という魚が踊り入り、これを吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立ったという話になっている。これらの霊異談は弱体化していた古族江戸氏を婉曲に退去させるための口実という説がある。

 江戸城が完成して品川から居館を遷したのは、長禄元年4月8日(1457年5月 1日)であったと言い伝えられている。 江戸城の守護として日枝神社をはじめ、築土神社や平河天満宮など今に残る多くの神社を江戸城周辺に勧請、造営した。

 江戸城城主となった資長は、ここで兵士の鍛錬に勤しみ、城内に弓場を設けて士卒に日々稽古をさせて怠ける者からは罰金を取り、それを兵たちへの茶代にあてたという。 諸書を求めて兵学を学び、殊に『易経』に通じて当時の軍配者(軍師)の必須の教養であった易学を修め、また武経七書にも通じていた。

 『太田家譜』によると管領細川勝元に兵書を贈ったとされる。資長の兵法は「足軽軍法」と呼ばれた。

 これは、それまでの騎馬武者による一騎討ちを排して、当時、登場し始めていた足軽を活用した新時代の集団戦術と論じられることが多いが、実のところ「太田家記」に名称だけが書かれているだけで実態は不明である。 飛鳥井雅親、万里集九などと交流して歌道にも精通して、様々な和歌が残されている。有名な「山吹の里」の伝説はここから生まれた。

 文明元年(1469年)から文明6年(1474年)頃に著名な歌人の心敬を品川の館に招いて連歌会を催し、これは「品川千句」と呼ばれる(優れた歌人の父道真も「河越千句」を行っている)。

 また、文明6年には心敬を判者に江戸城で歌合を行い、「武州江戸二十四番歌合」が残っている。

 長禄2年(1458年)、将軍義政の異母兄政知が関東に下向して堀越公方と称したが、古河公方との戦いは膠着していた。

 『太田家記』によると寛正6 年(1465 年)に資長は上洛して将軍義政に関東静謐の策を言上したとある。この上洛については他の史料に所見がなく疑問とされているが、近年の研究では寛正 3年(1462 年)に持朝が政知と対立して政知の側近渋川義鏡の讒言によって謀叛の疑いをかけられて、三浦時高・大森氏頼・実頼父子・千葉実胤ら扇谷家の重臣が隠遁する程深刻な事態に陥っており、両者の対立の収拾に数年かかっていた事が明らかとなっており、資長が持朝に代わって幕府に対して弁明あるいは関係修復するために上洛した可能性も指摘されている。

 文正元年(1466年)関東管領房顕(憲忠の弟)が死去。

 前年から上杉方は武蔵国五十子(埼玉県本庄市)に城をつくり、古河公方と対峙していた。この五十子の陣で以後、18年に渡り両軍は対峙することになる。山内家は越後上杉家から養子に入った顕定が継いだ。

 応仁元年(1467年)京で応仁の乱が勃発。

 同年、父道真が長年仕えた扇谷持朝が死去。跡を孫で16歳の政真が継いだ(前年に家督を継承)。

 文明3年(1471年)古河公方が攻勢に出て、武蔵を突破して箱根山を越えて、長躯、堀越公方のいる伊豆国へ進撃せんと図った。上杉方はこれを撃退し、古河城へ逆襲し、これを陥れた。成氏は千葉孝胤を頼って落ち延びた。 一旦は上杉方が優勢となったが、成氏は反撃に出て文明4年(1472年)に古河城を奪回。

 文明5年(1473年)には五十子の陣を強襲して、扇谷政真を討ち死にさせてしまう。 若い政真には子がおらず、資長ら老臣が協議して政真の叔父にあたる定正を当主に迎えた。 この頃に資長は出家して道灌と称した(備中入道道灌)。

 「道灌」を名乗り始めた正確な時期は不明だが、「道灌」名義の初出は文明6年 6月の歌合記事である。

長尾景春の乱

 文明5年、山内家家宰長尾景信が死去した。跡を子の景春が継いだが、山内顕定は家宰職を景春ではなく景信の弟の忠景に与えてしまい、これを景春は深く恨んだ。 景春と道灌とは従兄弟同士であり、景春は道灌に謀反に加わるよう誘った。

 道灌はこれを断り、五十子の陣にいる主君顕定、定正そして父の道真の元へ赴き、景春を懐柔するために武蔵国守護代につけ、忠景を一旦退けるよう進言したが、顕定はこれを受け入れなかった。それでは、直ちに景春を討つよう進言するが、顕定はこれも受け入れなかった。

 文明8年(1476年)2月、駿河守護今川義忠が遠江国で討ち死にし、家督をめぐって遺児の龍王丸と従兄の小鹿範満が争い内紛状態となった。小鹿範満は堀越公方の執事上杉政憲(犬懸家)の娘を母としており、道灌は範満を家督とするべく、政憲とともに兵を率いて駿河に入った。

 この今川氏の家督争いは、龍王丸の叔父の伊勢盛時(後の北条早雲)が仲介に入って、範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とすることで和談を成立させ、駐留していた道灌と政憲も撤兵した。

 『別本今川記』によると、この際に道灌と早雲が会談して、早雲の提示する調停案を道灌が了承したとある。

 従来、早雲は道灌と同じ永享4 年(1432 年)生まれとされ、主家に尽くした忠臣道灌と下克上の梟雄早雲とのタイプの異なる同年齢の名将が会談したエピソードとして有名であるが、近年の研究によって早雲は素浪人ではなく将軍直臣の名門伊勢氏の一族であり、年齢も24歳若い康正2年生まれ説が有力となっている。

 長尾景春の乱関係図 道灌が駿河に出張していた同年6月、景春は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に拠って古河公方と結び、挙兵した(長尾景春の乱)。

 翌文明9年(1477年)正月、景春は五十子の陣を急襲し、顕定、定正は大敗を喫して敗走。景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。更に石神井城(東京都練馬区)の豊島泰経が景春に呼応したため、江戸城と河越城の連絡が絶たれる事態となる。

 同年3月、道灌は兵を動かして景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)と小磯城(神奈川県大磯町)を速攻で攻略。江戸城の至近に拠る豊島氏は早期に滅ぼさねばならず、同年4月、道灌は兵を発して豊島泰経・泰明兄弟を江古田・沼袋原の戦いで撃破し、そのまま石神井城を落して豊島氏は没落した。

 同年5月、道灌は用土原の戦いで景春を破り、景春の本拠・鉢形城を囲んだが古河公方が出陣したため撤退して、早期に景春を討つ好機を逃した。 道灌は上野国へ侵攻して塩売原で景春と対陣するが決着はつかなかった。

 道灌の東奔西走の活躍により景春は早々に封じ込められた格好になり、翌文明10年(1478年)正月、古河公方は和議を打診してきた。

 同年4月に武蔵国の小机城(神奈川県横浜市)を包囲した。

 「太田家記」によると城の守りが堅固な上に、攻め手が小勢なため包囲は数十日に及んだが、道灌は「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」という戯れ歌をつくって兵に歌わせ士気を鼓舞してこれを攻め落とした。続いて、景春方の諸城を落として相模国から一掃。

 同年12月に和議に反対する古河公方の有力武将であった千葉孝胤を境根原合戦で破り、翌年には孝胤と千葉氏当主の座を争っていた千葉自胤を擁して、甥の資忠を房総半島に出兵させ、反対派を一掃した。だが、千葉氏の拠点の一つであった臼井城攻略中に資忠は戦死、臼井城を落として孝胤を放逐したものの、太田軍が撤退するとすぐに孝胤が巻き返して自胤側勢力を下総から一掃したために、孝胤と景春の連携を絶つという目標は達したが、もう一つの目標である千葉自胤の下総復帰は達成できなかった。

 なおも抵抗を続けていた景春も文明12年(1480年)6 月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ没落した。

 文明14年(1482年)、古河公方と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。

 道灌は30数回の合戦を戦い抜き、ほとんど独力で上杉家の危機を救った。「太田道灌状」で「山内家が武・上の両国を支配できるのは、私の功である」と自ら述べている。

道灌暗殺

 道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。

 『永享記』は道灌が人心の離れた山内家に対して謀反を企てたと記している。また、扇谷家中が江戸・河越両城の補修を怪しみ定正に讒言したともある。これらの中傷に対して道灌は一切弁明しなかったが、『太田道灌状』で道灌は主家の冷遇に対する不満を吐露している。また、万が一に備えて嫡男の資康を和議の人質を名目として足利成氏に預けている。

 文明18年7月26日(1486年8月25日)定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺された。享年55。

 『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。

 後に『上杉定正消息』で定正は道灌が家政を独占したために家中に不満が起こっており、また、道灌が顕定に謀反を企てたために討ち果たしたと述べている。

 道灌暗殺の原因については、定正が力が強くなりすぎた道灌が自身にとって代わりかねない下剋上を恐れたとも、扇谷家の力を弱めるための顕定の画策に定正が乗ってしまったとも言われる。

 また、雑説だが江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている。

 道灌暗殺により、道灌の子の資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人、地侍の多くが山内家へ走った。定正はたちまち苦境に陥ることになった。

 翌長享元年(1487年)顕定と定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げる。 やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭。早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになる。

 
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