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 群雄割拠  戦国武将伝
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 鬼庭 綱元

 鬼庭 綱元(おににわ つなもと、天文19年(1550年) - 寛永17年5月24日(1640年7 月13日))は、伊達氏の武将。

 父は鬼庭良直。子に良元・実元。喜多の異母弟で、片倉景綱は異母姉の異父弟に当たる。 遠祖は斎藤氏(越前藤原氏)とされる。

 伝承によると、山城国八瀬の国人・斎藤基良(内蔵人行元、斎藤実盛の孫、盛房(実俊)の子とする)という人物が山城国から、伊達郡茂庭村(現福島市飯坂町茂庭)に移住し、大蛇退治によって鬼庭氏と称するようになったのが始まりと伝わる。

 生涯

家督相続

 天正元年(1573 年)、父から家督を譲られて出羽国川井城主になると、伊達輝宗に仕える。 この頃、まだ幼かった伊達政宗に鷹狩りの指導を行ったという。

家老就任

 天正9年(1581 年)、政宗が初陣を迎えるに至って、その後見人として出陣する。

 天正13年(1585年)、父と共に人取橋の戦いで奮戦するが、父は討ち死にする。

一門の伊達成実や異母弟の片倉景綱とともに伊達政宗からの信任は厚く、特に行政手腕に優れていたため、翌年に綱元は38歳の若さで老臣を差し置いて奉行(家老)衆に加えられた。

 天正16年(1588年)には、相馬氏に対する要害である陸奥国百目木城の守備を任されている。

豊臣政権下

 天正18年(1590年)、小田原征伐の際には伊達成実と共に徹底抗戦を主張したという。

 天正19年(1591年)、葛西大崎一揆に出陣し、一揆勢の鎮圧にあたる。

 文禄元年(1592年)、文禄の役の際には肥前国名護屋まで出陣し、兵站を行った。日本軍からは戦死者よりも餓死者の方が多かったと言われているが、伊達軍から一人も餓死者が出なかったという。これは綱元が独自の補給ルートを確保していたからだと言われている。

 また、この頃から豊臣秀吉にも気に入られ始め、賭け碁を行って綱元が勝ったためお気に入りの側室である香の前を賜る。

 しかし、あまりにも秀吉と親しくなりすぎたことが政宗の怒りを買い、1595年に出奔させられる。

 文禄6年(1597年)、香の前を差し出すという条件で帰参を許される。

 また、徳川家康にも一目置かれ、出奔中家康は綱元を家臣になるように薦めたが、「忠臣二君に仕えず」の古言を守り、綱元は固辞した。

 家康は綱元の忠節ぶりに感激し、中白鳥毛槍、虎皮の鞍覆、紫縮緬の手綱、関八州の傳馬10疋の朱印状、永銭200貫文を与えられている。

関ヶ原の戦い

 慶長5年(1600 年)、政宗に命じられて上杉景勝の支配下にあった陸奥国湯原城を攻略する。その後は、留守政景と共に長谷堂城の戦いに出陣する。

  翌年、松川の戦いでは、伊達軍の先鋒として出陣する。

徳川政権下

 関が原の戦いの後に三男の良元に家督を譲る(長男と次男は早世)が、依然として茂庭氏の実権は綱元が握っていたという。また、知行地として陸奥国三迫を与えられる。

 慶長6年(1601年)、陸奥国仙台城の普請が始まると、仙台城留守居役に任ぜられる。

 慶長9年(1604年)、政宗の五男である伊達宗綱が陸奥国岩ヶ崎城主に任ぜられると、その後見役となり、陸奥国岩ヶ崎に居館を移す。

 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に出陣して政宗の長男である伊達秀宗の陣に属し、翌年の大坂夏の陣にも出陣する。 大坂冬の陣の後、秀宗に伊予国宇和島10万石が与えられたため、綱元も良元と共に同行して、秀宗の藩政を補佐を命じられる。

 元和4年(1618年)、宗綱が早世するとその菩提を弔うため、3年間高野山にこもる。 その後、政宗の下に戻ると藩政を補佐し、政宗が参勤交代で仙台を留守にする際には、政宗の代わりに藩政の全権を委ねられる。

 寛永13年(1636年)、政宗が死去すると三迫に隠棲する。

 翌年、政宗と宗綱の菩提を弔うため、廃寺だった古仙院を再興し、洞泉院を創建する。

 寛永17年(1640年)5月24日、当時としては異例の長寿であった91歳で死去。ちなみにこの日は政宗の命日でもある。

 
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