江良 房栄
江良 房栄(えら ふさひで、永正12年(1515年)- 天文23年(1554年))は大内氏、次いで陶氏の家臣。江良賢宣の弟。子に彦二郎、白井晴胤室。
生涯
大内義隆、次いで陶晴賢に仕えた。
天文20年1551年の陶晴賢の謀反(大寧寺の変)の際も陶軍の主力として活躍する。
義隆没後の大内陣営では弘中隆包と並ぶ勇将であった。その智勇には毛利元就も一目置いており、元就がまだ弱小勢力であった頃、陣を連ねて活動していたため、元就の手の内を良く知る人物でもあった。
武勇にだけ優れた人物という訳ではなく、陶氏の重臣として厳島を利用する上方商人から通行料を徴収するための交渉事も行っている。
大内義長を迎え、大内家中が一定の安定を保つと、安芸国内での影響力を高める毛利氏は晴賢にとって不穏分子としか映らなかった。そして吉見正頼が反乱を起こすと、毛利氏と陶氏の緊張は一挙に高まることとなった。
元就は先手を打ち、陶氏の重臣である房栄を味方にすべく、内応の誘いを入れたが拒否されたため、「房栄が元就と内応している」という虚報を山口周辺に流し、晴賢は疑心暗鬼に陥る。
天文23年(1554年)、房栄とその子・彦二郎をはじめとする江良一族(兄の江良賢宣を除く)は、岩国琥珀院にて、晴賢の指令を受けた弘中隆包らによって暗殺された。
一説によると、房栄は本当に毛利側に内通しており、その強欲な性格から味方に引き入れても危険と判断した元就によって、陶方に内通の情報を故意に漏らされたともいう。
これにより陶軍は大きく戦力を低下させ、折敷畑の戦い、そして厳島の戦いで敗北を喫することとなる。なお、生き残った江良賢宣は晴賢が厳島で討たれた後も大内家に仕えていたが、防長経略で山崎興盛らと須々万沼城に籠城、攻め寄せた毛利軍に降伏した。
|