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 群雄割拠  戦国武将伝
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 浅野 幸長

 浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。

 紀伊国和歌山藩(紀州藩)の初代藩主。浅野家宗家初代。

 生涯 

 天正4年(1576年)、近江国浅井郡小谷(滋賀県長浜市湖北町)に浅野長政の長男として生まれる。父は豊臣秀吉の正室・おね(高台院)の義弟で、豊臣政権では五奉行の1人となっている。

 天正17年(1589年)、従五位下・左京大夫に叙任される。

 天正18年(1590年)、後北条氏征伐(小田原の役)で初陣し、父とともに岩槻城を攻める。 この頃、前田利家の五女(母はまつ)・与免と婚約するが、嫁ぐ前の文禄2 年(1593 年)に早世した。享年17。

 文禄2年(1593年)、第一次朝鮮派兵(文禄の役)では、渡海して西生浦に拠る。 同じ年、父とともに甲斐国府中(山梨県甲府市)21万5千石(一説に長政に5万5千石、幸長に16万石)を与えられる。

 文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の失脚に連座し、能登国津向に配流されたが、前田利家・徳川家康のとりなしもあり、まもなく復帰した。

 慶長2年(1597年)、第二次朝鮮派兵(慶長の役)では、再び渡海して西生浦に着陣し、その後蔚山城(現在の蔚山広域市内)に拠って明国の武将・李如梅の軍と戦う。

 慶長3年(1598年)、秀吉の没後、朝鮮より撤退するが、その後は朝鮮でともに戦った加藤清正・福島正則らの武断派に与し、五奉行の文治派・石田三成らと対立した。

 慶長4年(1599年)、前田利家没後には福島・加藤らと共に石田三成を襲撃している。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し、池田輝政らと岐阜城を攻略、9月15日の合戦の当日には南宮山の毛利秀元、長束正家などの西軍勢に備え、垂井一里塚付近に陣を構えた。戦後、紀伊国和歌山37万6千石を与えられる。

 慶長5年(1600年)、従四位下・紀伊守に叙任された。

 慶長16年(1611年)、加藤清正と協力して二条城における家康と豊臣秀頼の会談を実現させ、清正とともに警備を行う。

 慶長18年(1613年)8月25日、和歌山で死去した。享年38。墓所は、和歌山市吹上の曹源山大泉寺と和歌山県伊都郡高野町の高野山悉地院。 幸長には男子が無かったため、幸長の死後、弟・長晟(長政の次男)が家督を継いだ。

 元和5年(1619年)、福島家の改易に伴い浅野家は安芸国広島藩に加増転封された。

 

 
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